港北ニュータウンの開発によって発見された数多くの縄文遺跡の記録や、発掘物は、横浜市立博物館や勝田の埋文センターに行けば見ることができます。しかし遺物はあっても遺跡は存在しません。神隠丸山遺跡も大熊仲町遺跡も二の丸、三の丸遺跡もその多くの部分がいまでは小綺麗に区画された住宅地です。弥生時代の環濠集落として知られる大塚遺跡も半分以上が消えました。
 現在の田園都市線たまプラーザ駅付近が元石川と呼ばれていた頃。元石川から今では港北ニュータウンの中心地である山田あたりにかけては、それはもう大変な山奥で、横浜のチベットと揶揄するヒトもいたほどです。そこで苦労しながら農業をやっていた人たちの艱難辛苦を思えば「便利になってよかったね」と本当に思います。その人たちを前にしたとき、生活よりも遺跡保護を優先しろとは私にはとても言えません。だけれどももう少しやりようがあったのではないかとも思います。巨大縄文村がニュータウンの中心にデンと居座っている光景。それはそれで地域の活性化にプラスになったのではないかと思うのですが。
 もっとも日本でこのさき少子化による人口減少が続けば、遠からずニュータウンそのものが遺跡になっちゃう日が来るかもしれませんが。
 ところで西暦2000年11月5日、私はその横浜市立博物館で当時文化庁の文化財主任研究員だった岡村通雄さんの公演を聞いていました。おりしもその日の朝刊でスクープされた旧石器捏造事件の影響で、岡村さんは目を覆わんばかりの落胆ぶり。公演中に何度もため息をつき、話しが先に進まなかったのを憶えています。

境田貝塚方面から見た横浜市歴史博物館。奥の山が大塚遺跡

境田貝塚は港北ニュータウンに残された数少ない縄文遺跡

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港北ニュータウン(横浜市都築区)