川崎の遺跡発掘を語る上で特筆すべき人に、民間の考古研究者で日本考古学協会の会員でもある持田春吉さんがいます。もともと農民の持田さんは、自身の畑から土器のかけらが多数出てくるのに興味を抱いていました。昭和30年代から40年代にかけて多摩丘陵地域では、東急田園都市線の延長工事などにともなう大がかりな宅地造成が始まっており、持田さんの住む川崎市宮前区の有馬、鷺沼周辺でも開発にともなう発掘調査が頻繁に行われるようになりました。持田さんは、そういった発掘調査に参加しながら考古学への見識を深めてきました。持田さんは当時鷺沼遺跡の調査に当たっていた甲野勇さんと、塩野半十郎さんの手ほどきを受け、考古学研究の世界へ入っていきました。
「甲野先生は、椅子に座ってパイプを燻らしている姿が泰然自若としていて印象的でした」と当時、甲野さんのお宅に伺ったときの印象を語っています。
持田さんは鷺沼遺跡の発掘を振り出しに研究を重ね、ついには昭和54年に自費で川崎考古学研究所を立ち上げました。研究所には縄文前期の諸磯期の土器を中心に、弥生中期の宮の台式土器群や環状石斧など多数の優品が保管されています。特に諸磯期の遺物では他では見られないものが揃っています。また持田さんが手がけた発掘調査報告書のなど、蔵書は6000冊を数えます。
現在川崎、横浜地域の博物館や埋文センターなどには、若い頃に持田さんの手ほどきを受けた方々も数多くおります。学校行事などで訪れた児童も多く、川崎市におけるその文化的な役割は多大なものがあります。文化不毛の地とささやかれる川崎にあっては、もし持田さんが川崎考古学研究所を立ち上げなかったならば、全国的に見ても貴重な諸磯式期や十三菩提式期の土器コレクションがどうなっていたか解りません。
全国の考古学の現場では、民間の研究者が重要な力になっている例も多いと思います。持田さんの様な地道に努力を続けながら地域の考古学を支えている人達にもっともっと光があたってほしいと願わずにはいられません。