掘っ建て柱の意味するもの
三内丸山遺跡(青森県)、チカモリ遺跡(石川県)、桜町遺跡(富山県)
 
 初めて三内丸山遺跡を訪ねた時は、巨大掘っ建て柱が復元される前で、全体的に見ても一般に公開するにはまだ未整備な部分が多いという印象でした。見学路には一面に土器片が散らばっていて、観光客はその上を踏みしめながら順路をまわるという状況でした。わざとその様な演出で行っていたとすると凄いんですけどね。どうせ結合不可能な小さな土器片は段ボールに仕舞われっぱなしで二度と日の目は見ないんですから、これもありかなとおもいましたが、次に行ったときにはきれいに取り払われていました。
 三内丸山遺跡発見の一番の価値は何と言ってもその説得力の大きさにあると思います。それまでにも鳥浜貝塚や寺野東遺跡、不動堂遺跡などの調査によって「縄文人は思ったよりも高度で豊かな文化を持っていた」と言われてはいましたが、私のような素人には今ひとつイメージが湧かず「へーそうなの」ぐらいなものでした。しかし三内丸山遺跡の発見によって否が応でもそれを納得させられてしまったのです。素人の見物人にとって、それを見ることは千の学者による万の言葉より説得力のあるものでした。
 さて賛否両論渦巻く巨大掘っ建て柱構築物について。この6本の柱全てが内側に傾けて立てられた、いわゆる内転びの技法が使われている点だけを見ても、なにか重い物がその上に乗っていたのではと思えます。素人考えですが、もしトーテムポールなら天に向かって直立させたと思うのですが。
 この6本柱のように、特定の空間を間仕切る形で立てられている柱は、柱そのものに意味が有るのではなく、それらが生み出す空間にこそ大きな意味を持たせていたのではないかと思えてなりません。特にチカモリや真脇のウッドサークルのように入り口と思われる遺構がある場合はなおさらです。木柱列だけの物で有ればわざわざ入り口を作る必要は有りません。桜町遺跡の発見により明らかになった縄文人の持つ高度な木材加工技術の点や、また北海道の斜里では建物の壁と目される素材が発見されたとも報じられています。素人目にはこれらの遺構は屋根も壁もある建物だったように見えてしょうがありません。
 掘っ立て柱をトーテムポールとする考えは北米大陸の民族事例に依拠したものでしょう。考古学研究で知られるタレントの苅谷俊介さんは、環太平洋の先住民族の事例では巨大掘っ立て柱で建物を建てる事例もあると、以前考古学の講演でスライドを交えて紹介されていました。 【この講演は國學院大學の渋谷キャンパスで行われました。縄文考古学の重鎮にして掘っ立て柱=トーテムポール説の中心的存在、小林達夫教授をまえにして『この掘っ立て柱建物は三内丸山遺跡の巨大柱穴を想起させる』と話していた光景はいまだに目に焼き付いています】 もちろんどちらにせよ、現存する民族事例がそのまま縄文時代の事例に当てはまるかどうかは確定できません。参考になるという程度のものでしょうけれど。
 
 ついでに言えば、よく引き合いに出される諏訪の御柱祭りの巨木柱ですが、当初は諏訪大社の本殿の建て替えの時の行事であったものが、年月を経るうちに、七年に一度周囲に柱だけを立てる祭りとして伝わったものではないかと思います。どちらにせよ四隅に立てると言うことは、囲われた空間が重要なのであって、柱そのものが何かを意味しているということではないと思います。あくまで見物人による素人考えにすぎませんけどね。
 縄文人にもしトーテムポールを立てる風習が有ったとすれば、やはり当初は村の中心か外れに一本だけ巨大な柱を立てるというところから始めただろうと思うのです。けれどもどうも古い時代のそういった遺構があるという話は聞きません。どこかに有るのかもしれませんが。
 以前チカモリ遺跡へ行ったときも展示館の関係者の方(学芸員ではない)がウッドサークルについて「建物の柱だと思いますよ」と話してました。
 桜町遺跡へ行ったとき、私は柵で囲われた一般人立入禁止の区域外からのぞき込むように発掘の様子を見物していたのですが、取り払った表土をまとめるためにユンボを操作していたおじさんが「こっちのほうがよく見えるよ」と柵のなかへ入れてくれました。発掘作業が行われている底部の縁まで案内され、遺跡の説明も丁寧にしていただきました。たのめば下まで降ろしてもらえそうな勢いでしたが、さすがにそこまでしてもらうと見物人としての立場を踏み外すことにもなるので、言葉に出すのは自重しました。地方の遺跡や博物館へ行くとこうした親切な人にたくさんあうことがあり、これも遺跡見物の楽しみの一つになっています。                

公開当初の三内丸山遺跡。通り道には土器片がごろごろ。まだ掘っ立て柱構築物が復元される前の話。

チカモリ遺跡の復元柱

桜町遺跡の発掘風景

真脇遺跡の発掘風景

真脇遺跡の前は田圃と駅。のどかな風景

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柱だけだとすると、うち転びによる立て方は不自然。と素人目には映りました。

柱だけだとすると、立て替え方や入り口の存在が
説明できない。と素人としては疑問がわきます。

膨大な発掘資料は縄文人の優れた建築技術を証明した。

柱穴は建物の可能性もあるということを考慮して発掘しなければ、大きな見落としも出てくるのでは?