君たちは本当に幸せだったの?
亀ヶ岡遺跡(青森県木造町)
「顔にくらべて体がやけに小さく、目だけが異常に大きく目立って、なんだか異様な印象だったのをおぼえています」
これは未熟児で生まれた我が子を初めて見た時のある父親の感想です。失礼ながらこの話を聞いた時、私は真っ先に遮光器土偶を思い浮かべてしまいました。
 縄文時代晩期の代名詞とも言える亀が岡式土器。精巧、緻密、手捻りによる土器技術の到達点。確かにそうなんですが、なにかこう、諸手を挙げて「華やか」と言えないものを感じてしまうのです。例えはえらく悪いんですが、まるで独裁国家の軍事パレードでも見ているかのような冷たい華やかさ。その華やかさの裏側にかいま見える漠とした不安のようなもの。目に見えない閉塞感。この文化圏に生きた人々にはそんな感情がわだかまっていたのではないか。この時代すでに流通網は列島各地に延びていましたから、各地の拠点的集落の没落ぶりも情報としてこの地にも伝わっていたでしょう。ほんのちょっとした気候変動でも、手に入る食料の内容は変わります。縄文時代の後晩期、東日本ては、山の幸にたよっていた村は衰退し、海の幸が期待できる地域に人は集まりました。それでも迫り来る目に見えない不安は払拭されない。抜歯や入れ墨の風習も、より強大な痛みから身を守るために、自らの痛みを捧げるという意味合いもあったのでしょう。それらは
「自分たちはもうこんなに苦しんでいるのだから、どうかこれ以上ひどいことはおこさないでください」と自然界に訴えかけているような自虐的ともとれる風習です。弥生時代に北上してきた稲作文化を抵抗なく取り込むことができたのも、現状を打破しようとする意識が満ちていたからかも知れないと私は感じています。亀ヶ岡式土器や遮光器土偶の洗練された美と完成度の高さが現代人の芸実的センスを刺激するのは確かです。けれども私は、その美を称える言葉を目にすればするほど「君たちは本当に幸せだったの?」と問いかけずにはいられないのです。     

この美しい場所に縄文人は村を作った。

ベンセ湿原から見た岩木山

木造駅

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