田端遺跡(東京都町田市)
縄文時代後晩期の配石遺構です。ここから見るとちょうど冬至の日に太陽が蛭ヶ岳山頂に沈むというので、ストーンサークルと、冬至夏至春分秋分の関係を説いた、縄文ランドスケープ論のモデルケースの一つにもされています。大湯ストーンサークルのところで書きましたが、ストーンサークルと呼ばれている縄文時代の一連の墓地は、その性的結合を連想させる形状から、死せる魂が男女の交わりにより再び地上に降臨することを表しているのは間違いないでしょう。当然何らかの祭祀もそこでおこなわれたとおもわれます。しかし縄文人は文字を残していないので、祭祀の内容は今や知るよしもありません。縄文人が後の風水の様な方位を意識していたかどうかを遺構のあり方で判断するのは難しいと思います。
よく言われる縄文ランドスケープ論ですが、砂漠や大平原を持つ国々から見れば、「日本はすべて山の中である」といっても過言では無いでしょう。夏至や冬至の日の出、日の入りが遺跡からみて周辺の特徴ある山に懸かるのは至極普通のことに見えるのですが。それとも彼らはなにか高きものに畏敬の念を持っていたのでしょうか。それならば三内丸山で巨大な構築物を建てたのも、うなずけますね。
私が行ったときは、公園整備の途中でした。今、地表に見えているのはレプリカ。現物は土中に埋納保存されています。
丹沢は山脈と言わず、丹沢山塊と呼ばれます。つまり一つの固まりですね。蛭ヶ岳、檜洞丸、丹沢山など幾つもの山頂が重なっているので、どこが最高地点なんだかよく解りません。そんな中でも目立つのは、東の端に神奈備姿も美しい大山です。大山をさておき、どこがてっぺんなんだかよく解らない蛭ヶ岳を重視するランドスケープっていったい・・・・
もっと南へ下れば冬至の日に大山へ沈む夕日を見ることができるかもしれませんが。