布施街道 道中記 布施街道の表紙に戻る
①根戸十字路から守谷まで   ➁守谷から高岡まで   ③高岡から中高津まで


①根戸十字路から守谷まで


 根戸十字路で水戸街道から分かれた布施街道は関東三弁天の一つ布施弁天の前を通り、利根川七里ケ渡し
で常陸国(茨城県)に入る。現在は新大利根橋を渡るのだがこれが長い。利根川を渡ったら土手下の草道を通り
戸頭の集落に入って行くが、その先は旧道が消滅。 旧道に近い道を歩き関東鉄道の南守屋駅近くまで来ると
旧道が復活するが、つくばエクスプレスの守谷駅付近で再び一部消滅する。
 


街道地図

平成30年9月27日

 布施街道の出発点は旧水戸街道との追分である「根戸十字路」(左)から。
JR常磐線北柏駅を降りたら駅に続く跨線橋で国道6号を横断し旧水戸街道に入って10分ほど歩くと根戸十字路に到着。

 十字路から5分ほど歩くと富勢郵便局の対面に「7基の庚申塔」(右)が並んでいる。文化2年(1805)、文化5年(1808)等の文字が読み取れるが、古街道らしい景色だね~

 布施入口交差点の手前を右に曲がり1~2分、三叉路際に布施弁天の大きな看板と文化7年(1810)の常夜灯(冒頭の写真)が見えるが、その下にある石柱は「布施道道標」(左)。貞享4年(1687)のもので刻まれている文字は「従是布施道」。

 この三叉路を右に曲がり15~6分、右奥に見える寺院は新四国八十八ケ所相馬霊場二十六番札所の「南龍寺」(右)。 明治6年(1873)に寺子屋の天真学校が南龍寺に開設されるが、この学校はのちの柏市立富勢小学校の前身であった。


 南龍寺対面の三叉路際に「道標が2本」(左)。左側の道標には「左 江戸道  右 流山道」と刻まれている。右側の道標には「新四國大師道」と。

 10分ほど歩くとピンク色の恐竜が空を飛んでいるではないか。思わず1枚撮ってしまったが存在感あるね~。

 その対面には「地蔵尊」(右)がひっそりと座っている。この地蔵さんは安永5年(1776)からここに座っているようだ。
街道はこの先の寺山坂を下って行く。

 寺山坂を下った先の三叉路(変則十字路)の左側が布施街道だが右に入って関東三弁天の一つ、布施弁天に寄り道を。関東三弁天とは、江の島弁天・上野不忍池弁天・布施弁天のこと。

 右に入ったすぐの所に「新四国八十八ケ所相馬霊場67番札所」(左)がある。ここには安産不動明王堂・大師堂・大日如来堂・薬師如来堂がまとまっているが、管理はこの先の布施弁天東海寺。 奥まで入ると大量の庚申塔が。

 その先の突き当りを右に曲がると「布施弁天東海寺の楼門」(右)が階段の上に。竜宮城の様な形だが文化7年(1810)の建立で地元の大工棟梁が手掛けたのだという。

 楼門の先に見えた煌びやかな「本堂」(左)は享保2年(1717)の建立。 堂内には弘法大師作と伝わる弁財天像が安置されているが秘仏であるため見ることはできない。代わりに見えたのが ふくよかなお顔の弁天様。堂内撮影禁止のためお見せできないのが残念。

 本堂横の「鐘楼」(右)は文化15年(1818)の建立。 八角形の石積基壇の上に12角形に柱を建て、周囲に円形の縁を巡らせてその中央に鐘を吊るすというユニークな構造。これを設計したのは木製和時計や五角堂など奇抜な構造物を発明し「からくり伊賀」と呼ばれた矢田部の名主、飯塚伊賀七。 鐘楼の横に三重塔があるが、これは昭和48年(1973)の建立。

 街道に戻ると彼方に堤防が見える。いよいよ利根川かと思い堤防に上がると、その先は広大な河川敷の田畑。「その中を布施街道がまっすぐに伸びている」(左)。

 河川敷の道を歩いていると「庚申塔等の石塔群」(右)が。この道が旧道であったことの証だが、よく残ったものだ。
ずっと先にもう一つの堤防(内堤防)が見える。

 内堤防を越え「新大利根橋」(左)の下を回り込むと「七里ケ渡し跡」(右)の説明板が雑草の奥に見える。

 布施と対岸の戸頭との間に設けられた渡し場は元和2年(1616)に幕府が定めた利根川渡し場16ケ所の一つ。 ここには布施河岸も併設され銚子方面からの鮮魚などが陸揚げされて陸路で江戸川の加村河岸へ運ばれていた。河岸は明治23年(1890)に閉鎖されるが渡し場は昭和30年(1955)頃まで続いていたという。

 この後は堤防に上って「新大利根橋」(左)を渡るのだが、この橋が長いんだ。

新大利根橋を10分ほど歩いて利根川を越えると常陸国(茨城県)。橋の途中から堤防道に降り200mほど歩いたら堤防を下って細い草道を進むのだが案内表示も無くちょっと不安。

 ほどなく前堀橋を渡ると民家が見えてきてホッとする。
坂道を上った先の三叉路に「道標が1本」(左)。刻まれている文字は 「戸頭渡船場ヲ経テ千葉懸ニ至ル 野々井稲ヲ経テ取手町ニ至ル」。 すぐ先に旧稲戸井村の「道路元標」(左)がポツンと立っている。

 道路元標脇を通って左に入ると、その先は「戸頭神社」(右)。神社の創立は詳らかではないが観応3年(1352)に足利尊氏が天下安泰、武運長久を当社に祈願したという。この地はその当時から七里ケ渡しが設けられ利根川沿岸の交通の要衝として繁栄していた。

 戸頭神社を出て数分、突き当りは明治時代に廃寺となった永蔵寺の境内。そこに見える建物は「薬師堂」(左)。新四国相馬霊場の34番札所で、堂内には平将門の守り本尊と伝わる薬師如来が安置されている。境内には45番札所もある。

 この先の旧道は消滅状態。旧道に近い道を選んで歩き、国道294号と関東鉄道常総線を越えると旧道が復活。

 旧道に入って数分、守谷市消防団の消防器具置き場横に嘉永3年(1850)「二十三夜塔」(右)や地蔵尊・石塔などが集められた一角があり旧道の雰囲気を盛り上げてくれる。

 5~6分歩いたら「愛宕神社」(左)に寄り道を。この神社は平将門が建立したと伝えられている。関東地方に勢力を伸ばした将門は京都貴族に対抗して東国に政権を作ろうとしたが、そのとき京都の愛宕神社に模して建立したのだという。

 愛宕神社から街道に戻るとその先は三叉路となっているが、ここは左に入る道が旧道。数分歩くと再び三叉路となるがここは右へ。この三叉路際の植込みの中に文政7年(1824)馬頭観音がある。 旧道はこの先で県道を横断していく。

 県道を横断したらもう一か所寄り道をと向かった先は西林寺。 延喜2年(902)に比叡山の延昌慈念僧正が創建したとされる古刹。小林一茶ゆかりの寺で、境内に一茶の句碑がある。  ゆく年や 空の名残りを守谷まで  一茶

 西林寺から街道に戻ったらもう一度県道を横断して旧道に入って行くのだが、ほどなく県道に合流。

「平将門城址入口」の看板が見えたら右に曲がって5分ほど歩くと守谷小学校グランド端の対面に「守谷城址碑」(左)が見える。守谷城は平将門の叔父にあたる平良文の子孫、相馬師常によって築城された要害堅固たる城郭であったが、戦国時代に豊臣秀吉軍の侵攻によって廃城となっている。平将門の居城であったとも云われているが定かではない。

 街道に戻って数分、守谷総鎮守の「八坂神社」(右)は大同元年(806)の創建と伝えられる古社。拝殿内に狩野友信が描いたという素戔嗚尊(スサノオノミコト)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治する絵馬が掲げられている。

八坂神社を出て5~6分歩くと つくばエクスプレスの守谷駅が見えたので今回の旅はここまで。

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