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浜街道 道中記
絹 の 道 @
街道地図
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平成28年1月5日

 浜街道の出発点は甲州街道の八王子市・八日町交差点から。
写真の横に走る道路が甲州街道で、向うへ進む道路が浜街道。現在の国道16号(東京環状)である。

 浜街道を歩き始めて5〜6分、中央線の踏切に「相模街道踏切」(右)と表示が。国道16号は横浜街道、あるいは八王子街道とも呼ばれていたが、相模街道と呼ばれた時期もあったのだろう。

 いつ頃付けられた踏切り名か分からないが、この先もずっとこの名前を引き継いでもらいたいものだ。

この辺りは八王子市寺町。その名の通り寺院が多い場所なので何軒か寄り道を。

 街道から数分入った奥に本立寺と法蓮寺が並んでいるが、奥側の
法蓮寺に八王子千人同心の組頭であった「並木以寧の墓」(左)がある。臥牛の上に墓石が乗るというちょっとユニークな墓だ。

 千人同心がらみをもう一カ所。 「観音寺山門」(右)は千人同心の
千人頭旗本中村左京の屋敷門を移築したものと伝えられている。

 山門を入った目の前の本堂は大正時代の建築でそれほど古くは無いが、屋根の上に巨大な擬宝珠が乗るという珍しい。

 街道(国道16号)に戻り黄金橋を渡ると、僅かな区間だが旧道が残っている。その先の八王子医療刑務所の高い塀を見ながら子安町交差点を
過ぎると下り坂。京王線のガードを潜った先から再び旧道が復活する。その前にちょっと寄り道を。

 向かった先は片倉城址。室町時代に築かれ、戦国時代には北条氏の支配下にあったと云われているが詳しいことは分からない。
本丸跡」(左)と二の丸跡が城址公園として整備されている。

 本丸裏に鎮座している「住吉神社」(右)は、片倉城主・永井大善大夫道弘が応安5年(1372)に城の鎮守として、摂津国・住吉大社を勧請したもので、慶安2年(1649)、徳川三代将軍より朱印七石を拝領している。

 城址公園入口脇にちょっと気になる建物が。大正7年(1918)に建てられたレンガ造りの米蔵が今は「Coffee Bricks」という喫茶店に。

 京王線ガード先から復活した旧道は残念ながら湯殿川で途切れてしまうが住吉橋を渡り50mほど下流へ歩き再び旧道へ。

 ところがJR横浜線のガード先で今度は兵衛川で途切れてしまう。ここは釜貫橋で対岸へ。旧家の富士屋登家横を通って100mほど先を右折していくのだが、その左側に「水神」(左)がひっそりと立っている。

 右折してすぐに慈眼寺の入口だが、ここに「至子安村」「至ヤリ水村」などと刻まれた「道標」(左)が1本立っている。

 参道を進むと2階建・朱鮮やかな「慈眼寺仁王門」(左)が。2階が鐘楼となっており大晦日には鐘を撞くことができるのだそうだ。この梵鐘には寄進した鑓水商人の名が刻まれているのだとか。


 仁王門脇にあった「百萬遍供養塔と六地蔵」(右)は供養塔が寛政11年(1799)、六地蔵は天保2年(1831)の建立。地蔵様はお顔が割れたり摩滅していたりと、ちょっと痛々しい。

 街道に戻るとすぐ先に小さな祠があるが、これは「白山神社」(左)。
祠の右側にある馬頭観音は道標を兼ねているようで僅かに文字が読めるが風化がひどい。「片倉村 鑓水村」などと刻まれれているそうだ。

 この先は大規模な宅地開発によって旧道は消滅。日本文化大学の
東側を通っていたということだがルートは はっきりしない。

 とりあえず白山神社前の道を進むことに。「住宅地の中の緩い上り坂」(右)は1km近く続く。片倉台郵便局前まで上ってやれやれと思い、片倉台小学校を回り込むと再び上り坂。

 国道16号八王子バイパスの上まで来たら住宅地の外れを右折すると、突き当りの手前に「長い上り階段」(左)が。この階段を上ると消滅を免れた「絹の道」へ入ることができる。

 いったい何段あるのか数えながら上ると、丁度150段。途中に踊り場が何カ所もあるが長い上り坂の後の150段はキツかった。

 上りきって ふっと振り返ると「八王子市街」(右)が一望。疲れが吹き飛ぶような爽快感を味わえる。目の前には「絹の道」と記された道標が。足取りが一気に軽くなった。
 

 道標に従って数分、階段脇の石標は「絹の道碑」(左)。昭和32年(1957)に地元の有志によって建てられたもので、この石碑によって「絹の道」という名称が一気に広まった。

 階段を上った先は大塚山公園となっているが、頂上部分の竹垣の中は「道了堂跡」(右)。生糸取引で財を成した鑓水商人が浅草花川戸から道了尊を勧請して明治7年(1874)に創建したもの。

 当時の様子が「絹の道」を下った先の御殿橋の欄干に嵌め込まれた
銅板版画(複製)で知ることが出来る。

ここからしばらくは「歴史の道百選」にも選ばれた絹の道。この時期(冬)は落ち葉を踏みしめながら往時を楽しむ道だ。

 絹の道を快適に下って鑓水三叉路まで来ると「石塔群」(左)が。
庚申塔・秋葉大権現・百八十八ケ所供養塔が並んでいる。

 その隣の絹の道説明板に「八王子の市(いち)に近い鑓水には生糸商人が多く輩出し、財力もあって地域文化も盛んとなり、鑓水は江戸鑓水とも呼ばれた」 とある。

 その鑓水商人・八木下要右衛門屋敷跡が「絹の道資料館」(右)となっているので寄り道を。絹の道の歴史が分かる上に、疲れた足の休憩が出来るとは、願ったりかなったりの資料館だ。

 その先に見える大木は 「一里塚榎」(左)。 かつてここに一里塚があったということだが、今は榎の大木だけがその存在を示している。

 さらに4〜5分歩くと御殿橋に到着。道了堂の風景が彫られた銅版画はこの橋の欄干に埋め込まれている。八王子市の史跡に指定されている絹の道はここから「絹の道碑」まで。この先は御殿橋を渡らず左へ。

 橋際に立つ「八王子道道標」(右)は慶応元年(1865)に建てられたもので、正面に「此方八王子道」、側面に「此方はら町田 神奈川 ふぢさわ」「此方はしもと 大山 津久井」と刻まれている。

「浜街道(絹の道)」は次の嫁入り橋を渡っていくのだが、その前に永泉寺にちょっと寄り道を。

 永泉寺は、甲斐・竹田氏家臣の永野和泉が当地に移住し、弘治元年(1555)に庵を建てて高雲山永泉庵と称したのが始まり。

 本堂は明治18年(1885)の火災で全焼。「現在の本堂」(左)は鑓水商人・八木下要右衛門から母屋の寄進を受け移築。奥の間の養蚕室、茅葺屋根を改築して本堂として使用している。


 本堂対面の句碑が並んだ中に「芭蕉句碑」(右)がある。
   先ずたのむ 椎の木もあり 夏木立   芭蕉

街道に戻り、嫁入橋を渡って旅を続けることに。

 街道際の茅葺民家は有形民俗文化財の「小泉家屋敷」(左)。
明治11年(1878)に再建されたもので木造平屋建て入母屋造り。現在も住居として使われているため中まで入ることはできない。

 この先は大規模宅地開発で旧道は消滅状態。小祠や板木名水などでかろうじて旧道があったことを知ることが出来る。また「鑓水板木の杜緑地名由来」によると、緑地の尾根道は鎌倉街道だったという。

 宅地開発で消滅した旧道であるが、思わぬところに「浜街道」の表示が。歩道橋に「浜街道歩道橋」(右)と表示されているではなか。

 ほどなく小山峠の頂上。その先は町田市。坂を下って行くと町田街道にぶつかるが、その手前を左に曲がると浜街道の旧道に入れる。
旧道に入って数分歩くと都道158号を横断するのだが、ここでちょっと寄り道を。

 向かった先は「田端環状積石遺跡」(左)。大小の石が環状に積み上げられている。縄文時代後期〜晩期(約3900年前〜2900年前)の構築で、この地域一帯に居住した縄文人の宗教的な場であったという。

 京王相模原線のガード下を通ったら札次神社に寄道を。境内の一角に「蚕種石(こたねいし)(右)と呼ばれる石がある。

 八十八夜が訪れると緑色に変わり、それを見た養蚕農家が蚕の孵化の準備をはじめたという石だ。「絹の道」にふさわしい石だが、役目を終えた今は八十八夜になっても緑色に変わることはないそうだ。

この先で町田街道に合流したら福生寺にも寄り道を。

 福生寺は天福元年(1233)の創建という古刹。「観音堂」(左)の本尊に随持して安置されている木造菩薩立像2体は12世紀(1101〜1200)頃の作だという。像高49センチとう小さなもの。

 町田街道に合流した浜街道は再び左側の旧道に入って行く。

 道路際にあったのは「秋葉大権現常夜灯」(右)。側面に札次大明神と刻まれており、後面には文化七年(1810)と刻まれているが、比較的新しいものなので再建されたのだろう。左の小さな石造は地蔵か?

秋葉大権現の先で旧道から町田街道に合流したらバス停が見えたので今日はここまで。

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