五日市街道 道中記
【1】杉並区・梅里から小金井公園入口まで
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 五日市街道のスタートは青梅街道の 「五日市街道入口」信号、ではなく100mほど西側の丁字路交差点から。
直線道路が多い五日市街道の中で難所と言われた七曲りが今でも生活道路として残っており往時を偲ぶことができる。また、江戸時代に
造られた千川上水、玉川上水が今も健在。五日市街道は上水に沿っているので ここを歩く場合は上水際の遊歩道がお勧め。
街道地図
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 平成26年11月13日

 青梅街道の「五日市街道入口交差点」ではなくその先の「丁字路交差点」(左)から左に入り100mほど歩いて次の「交差点を右に曲がる」(右)道が旧五日市街道で路線バスもこちらの狭い道を通っている。

 古くはこの道を「馬橋おんだし」と呼んでいた。野菜を満載した荷車を今は無き馬橋村(町名変更で現在は高円寺南・北・梅里)を通って青梅街道へ押し出した、ので 「馬橋おんだし」と呼ばれるようになったのだとか。

 この辺りは寺院が大変多い場所だが その内の2寺に寄り道を。

 交差点の向こう右側、大法寺の前庭に女団十郎と称されるほどの人気役者だった「市川九め(女)八の墓」(左)がある。交差点際から大法寺に入れるのですぐ分かる。

 大法寺前を通って数分歩いた先の慶安寺の墓地にあったのは杉田玄白らと共に解体新書を訳した蘭学者 「前野良沢の墓」(右)。前野家の墓地内にある。

 街道に戻りしばらく歩くと左へ入る細い道があるが此処が「七曲りの入口」(左)。100メートルほどで現・五日市街道に戻るが こんどは反対側の道に入り白幡の坂を下っていく。

 下り坂の途中に「石仏が三体」(右)。左右の地蔵菩薩は元禄11年(1698)と宝暦3年(1753)の建立。中央の馬頭観音は宝暦10年(1760)の建立。250年以上前の石仏だが今も大切にされているようだ。

 石仏の西側に合流してくる道があるが この道は馬橋道と呼ばれる旧道でこちらも結構な坂道となっている。

 白幡坂を下ると現・五日市街道に合流するが旧道はその少し手前から右に曲がり「善福寺川」(左)に架かる尾崎橋を渡っていた。 だが今は道も橋も消滅。現・五日市街道と現・尾崎橋を渡って対岸へ。

 幕府の御徒士であった辻知篤の紀行文に次のような一節が。「つづらおりめいたる坂を下りて田面の畦をゆく。田の中に小河ありて橋を渡る。これを尾崎橋という」

 橋を渡った先の宝昌寺入口に文久4年(1864)建立の「石橋供養塔」(右)があるが これは道標を兼ねており右側面に「東江戸道」と刻まれている。

 石橋供養塔から数分、再び右側の細い旧道へ。100mほど歩いたら今度は反対側の旧道へ入っていく。この辺りはくねくね曲がった旧道を串刺しにして現・五日市街道が通っているところだ。

 最後の七曲りから現・五日市街道に合流した所の一段高い場所に宝永5年(1708)建立の「笠付き庚申塔」(左)が祀られている。

 10分ほど歩いたら五叉路を左に入り数分先を鋭角的に右へ曲がり数分、再び現・五日市街道に合流するがその角にあったのは杉並区教育委員会が設置した「五日市街道碑」(右)と説明板。
 

 環状8号の高架下を通りしばらく歩くと街道際の祠の中に延宝6年(1678)と元禄9年(1698)建立の「庚申塔が2基」(左)。

  この辺りは大宮前新田といわれ寛文年間(1661~1671)に新田村として開村。 その村人が悪疫退散 村内安全を祈願して建立した庚申塔であった。

 その先の沿道に見えたのは立派な「欅並木」(右)。欅は武蔵野を代表する樹木、街道沿いでぽつぽつ見られたがここは本数が多いので見応え充分。

 欅並木から5~6分、街道際の神社は旧大宮前新田の鎮守「春日神社」(左)。大宮前開村の万治年間(1658~1660)に農民井口八郎右衛門の勧請によって創建されたと伝えられている。

 神社隣は大宮前新田開発の名主井口杢右衛門が開基した慈宏寺だが その井口家の墓地に元禄から享保年間に建てられたと推定される笠付の「當村開起慈宏寺大檀那供養塔」(右)が。

 村の開発と慈宏寺開創に尽力した大檀那4名の供養塔だが往時を知る貴重な資料。杉並区指定の文化財となっている。

 再び街道をテクテクと20分 ここにも街道際に神社が。この神社は旧松庵村の鎮守・「松庵稲荷神社」(左)。

 松庵とは江戸時代の医者のような名前だなと思ったら神社の説明板に「松庵という医者が万治年間(1658~1660)に開いた村」とある。なるほどなるほど荻野松庵のことだな。

 神社境内に「庚申塔が2基」(右)。元禄3年(1690)と元禄6年(1693)に建立されたもの。今も大事にされている。

 中央線のガード下を通った先の街道際に欅の大木が。ところが その先で見たのは大木どころか「欅の巨木」(左)。
「吉祥寺旧本宿のケヤキ」 と呼ばれるこの巨木は樹高29m、幹回りは5.1m。かたわらの軽自動車より太いのだ。

 吉祥寺駅に向かう商店街を通って向かった先は「月窓寺」(右)。境内に入ると商店街の喧騒が嘘のような静けさ。 本堂脇の観音堂には武蔵野市指定有形文化財の乾漆造白衣観音坐像が収められている。残念ながら拝観はできない。

 街道に戻り100mほど先の安養寺参道に入ると「庚申塔(左)が3基。真ん中の庚申供養塔は寛文5年(1665)に建てられたもので、旧北多摩郡では最古のもの。

 山門をくぐり境内に入ると右手に鐘楼があるが「ここに下げられた梵鐘」(右)は安永2年(1773)に鋳造されたもので武蔵野市内で唯一の江戸時代のものだそうだ。

 安養寺のすぐ先、武蔵野八幡宮入口に「井之頭弁財天道標」(左)が建てられている。 弁天様へお参りする人のための道標で天明5年(1785)に建立されたもの。左側面に刻まれた文字は「これよりみち」。

  参道奥の 「武蔵野八幡宮」(右) は寛文年間(1661~1672)に当地へ遷座したと伝えられているが神社としての歴史は古い。延暦8年(789)、坂上田村麻呂が宇佐八幡大神の分霊を江戸水道橋付近に祀ったと伝えられるが明暦の大火後に付近の住民が当地へ移住した際、村の鎮守として遷座したという。

 武蔵野八幡宮を出て十数分、「成蹊学園欅並木」(左)が見えてきた。大正13年(1924)に植栽された当時の樹齢は30年ほどだったというから今は樹齢120年。思い切り伸びた枝が見事な樹形を作っている。

 再び街道をてくてくと20分、「西荻稲荷神社」(右)も明暦の大火に関係する神社であった。

 寛文4年(1664)、大火で焼け出された江戸芝西久保城山町(現・港区虎ノ門付近)の住民を此の地に移住させたが このとき氏神様であった稲荷神社も共に遷座させたのだそうだ。

 稲荷神社の隣、源正寺の本堂前にある「イヌツゲ」(左)は寛文3年(1663)ごろ植栽されたというから樹齢がざっと350年。写真では分かりずらいが節くれだった幹に年輪の重さを感じる。

 境内に味のある庚申塔が。

 源正寺から数分先の 「関前八幡神社」(右) は関前村が開村した寛文12年(1678)に創建。ここは吉祥寺村や西荻村と異なりこの先の関村出身者が開墾したことから関前村と呼ばれるようになったという。

 神社を出て10分ほど歩くと交差点際に「御門訴事件記念碑」(左)が建てられている。

 明治3年(1870)、品川県が布達した社倉制度(貯穀制度)に反対した農民が県庁へ門訴(直訴)。この事件で名主の井口忠左衛門ら3名が非業の死を遂げたが この事件を後世まで伝えようと建てられた碑である。

 その先数分、大きな交差点を渡ると右手金網の中に「石橋供養塔」(右)が建てられている。千川上水と交わるこの場所に天保12年(1841)に石橋が架けられたがその橋を供養するために建てられたもの。

 五日市街道はここで左に曲がり千川上水に沿って西に向かう。

 左に曲がってすぐの所にかなり大きな「文字庚申塔」(左)が。天明4年(1784)に建てられた庚申塔で、下部に 「東江戸道 北 たなし きよ? ・・・・」などが刻まれており道標も兼ねている。

 この先は千川上水の北側を現・五日市街道が通っているが「車道と千川上水の間にある遊歩道」(右)が気持ち良く歩ける。

 千川上水は元禄9年(1696)に江戸・城北地区に飲料水と農業用水を供給するために造られらた水路で、この先の玉川上水から分流。昭和40年代に使命を終えたが清流復活事業で再びせせらぎが。

 遊歩道を20分ほど歩くと「千川上水 清流復活の碑」(左)が見られる。水流の途絶えた千川上水の補修作業が行われ平成元年(1989)に玉川上水を分流させることでかつての清流を復活。

 道路の向こう側に「玉川上水の碑」(右)が見える。承応3年(1654)に完成した玉川上水は江戸市中の広くに飲料水として供給され明治以降も東京都民の上水として使われてきた。

 しかし昭和40年(1965)に淀橋浄水場が閉鎖。以降は空堀状態だったが昭和61年(1986)から再び水流が復活。都民の憩の場となっている。

 上水碑のすぐ下流が江戸時代は水番所と言っていた「境水衛所跡」(左)で現在の千川上水はここから分流されている。(江戸時代には100mほど上流から分水していた。)

 ここは水番人が常駐して玉川上水に流れる水量の調節や落ち葉の掃除などを行っていた場所。明治以降は東京市水道部が管理を行い名称も水衛所と変更されている。

 この先の五日市街道は玉川上水に沿って西進。上水と車道の間に「遊歩道」(右)が設けられているのでここも快適に歩ける。
 

 10分ほど歩くと遊歩道の端に嘉永4年(1851)に建てられた「桜樹接種碑」(左)がある。

 元文2年(1737)頃、上水の堤に桜が植えられ名所に。しかし百年余が過ぎ老木になったため嘉永3年(1850)に数百本の桜樹を補植。この経緯を後世まで伝える為に建てられた石碑なのだそうだ。

 ほどなく桜の名所として知られる「小金井公園」(右)前に到着。今日の街道旅はここまで。広大な敷地の中には「江戸東京たてもの園」など見どころが多いが今回は街道旅。機会があったら。

五日市街道【2】小金井公園前   五日市街道の表紙に戻る