鎌倉街道上道
(10) 西大家から鳩山町まで

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街道地図

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  (10)西大家から鳩山町  (11)鳩山町から嵐山町  (12)嵐山町から能増  (13)能増から小前田  (14)小前田から児玉  (15)児玉から神流川   (16)神流川から西山名駅   (17)西山名駅から高崎城址

 鎌倉街道上道の旅はついに10回目、今回は東武越生線の西大家駅から。

 東京国際大学グラウンド脇を通り、田園地帯を抜けると毛呂山町。実に丁寧に道筋案内板や標柱が
建てられている。また鎌倉街道特有の掘割道も残されており「旧鎌倉街道を歩いている」という実感を
得ることができる。

 越辺川を越えると鳩山町に入るがこの先は旧道が消滅。しかし、長閑な田園風景などを眺めながら
のんびり歩くのも悪くはない。

 鳩山町の街中を抜け笛吹峠に向かう大橋交差点まで歩くと、その先は公共交通機関が無い。
今回の旅はバスの終点・大橋までとした。

平成29年12月25日


 西大家駅を出て7~8分、坂戸西高校の前に「万葉歌碑」(左)が建てられている。
      入間道の大家が原のいはゐづら ひかばぬるぬる吾にな絶えそね
          私とあなたの間柄もいつまで続いて欲しい、 という愛の歌なんだって。

 入間道は武蔵と上野の国府を結ぶ官道であった。
中世以降は鎌倉街道として重要な役割を持ち、新田義貞・畠山重忠ら名将武将もこの道を通って鎌倉へ。

 

 グラウンド脇の道を通り、「森戸橋」(上右)を渡り、田んぼの中の一本道を進むと寛政7年(1795)建立の「馬頭観音」(左)が道路脇にポツンと立っている。

 その先の緩い上り坂を進むと字路となるが、ここは左側の細い道に入って行く。うっかりすると道なりに右へ曲がってしまいそうだが、「左の道が旧道」(右)で、しかも鎌倉街道特有の掘割となった草道
 コメント:掘割状にはなっているが往時のままとは思えない。

 左の道に入ってすぐに左へ曲がると、その奥は市場神社。

 草道を進みバス通りを横断、 民家の間の細い道を歩き小さな橋を渡ると「田圃の中の一本道」(左)が彼方に続いているが、その先は藪の中に入って消滅。

 ここは一旦バス通りに出て数分歩き「鎌倉街道⇒」の表示に従って右に入りしばらく歩くと旧道に復帰できる。 そこに「鎌倉街道遺跡標柱」(右)が建てられている。

 標柱の右手に林が切り開かれた凹状の場所があるが、ここは発掘調査によると掘割状の旧道遺構なのだそうだ。

 標柱から10分ほど歩き県道59号を横断。この間の2ヵ所に鎌倉街道案内板が建てられている。

 県道を横断し数分歩いた先の鎌倉街道案内標柱に歴史民俗資料館の案内があったのでちょっと寄り道を。が、残念、本日は休館日(月曜日)

 前庭に古墳が見えるがこの古墳は越辺川流域に多く見られる古墳の一つ、「西戸2号墳」(左)を移設復元したもの。

 なんと、江戸時代に造られた「板蔵(穀蔵)(右)が展示されている。  内壁の板に「天保九年(1838)戌4月吉日」の墨書があり、屋根材に江戸時代の和釘が残っていた建物を当時のままに修理したという。


 街道に戻り林の中の道を進むと小さな十字路に鎌倉街道標柱があるが、その後ろの塚上に延宝4年(1676)「庚申塔」(左)が建てられている。この塚の辺りはその昔、大薬寺があった場所。


 この十字路を左に曲がると林の中に直径10m前後の塚が多数あるが、ここは「川角古墳群」(右)。7世紀初頭ごろの築造で38基の円墳があるそうだ。


 古墳群の一角に「崇徳寺(すうとくじ)跡」(左)がある。 創建年などは分からないが、貞治2年(1363)の苦林野合戦で焼失したという伝承があり、板碑や中世墓などが発掘されている。


 崇徳寺跡から林を出て県道を横断し、再び林の中に入ると崇徳寺跡から移設した「延慶の板碑」(右)が見られる。延慶3年(1310)と刻まれた塔婆で高さ3mという大きなもの。

 十字路まで戻り林を抜けると左手に毛呂山養護学校があり右手に大類グラウンドが広がっているが、この辺りは「堂山下遺跡」(左)。 室町時代の集落跡で、鎌倉街道を挟み東西に集落が広がっていた。

 大類グラウンドの入り口近くに設置された説明板によると、この場所は越辺川を渡る地点にあり交通の要衝。鎌倉、室町時代の文献に登場する「苦林宿」ではないかとも言われている。

 旧街道は越辺川を渡っていくのだが今は消滅。 一旦県道を歩いた後 田んぼの中の道を迂回していくと、途中の牧場で窓から顔を出したのは「お馬さん」(右)。

 この先は越辺川沿いに歩き比企郡鳩山町へ。

 ほどなく側面に「明治九年(1876)十月建設」と刻まれた「常夜灯」(左)が見えるが、これは越辺川を利用して越生周辺の木材を江戸まで運んだ筏師たちが建てたもの。 土台脇に庚申塔が1基。

 鎌倉街道は常夜灯の少し手前で消滅しているので近い道を選んで歩いていると「八坂神社」(右)が。寛文3年(1663)に京都の八坂神社を勧請し悪病の退散を祈願して祭祀したのが始まりとされる。

 消滅した鎌倉街道は「県道171号」(左)の おしゃもじ山公園 下あたりで復活。


 県道を10分ほど歩いたら右側の旧道に入って行くのだが、その途中の赤沼屋駐車場奥で「馬頭観世音」(右)を発見。比較的新しいそうに見えたが案の定、銘を見ると平成十六年(2004)とある。

 つい最近の建立だが、まだ馬頭観音信仰があったとはちょっと驚き。

 一寿司の向かい側に残った旧道に入り100mほど歩くと十字路際に「赤沼供養塔」(左) と呼ばれる 地蔵尊 ・日本廻国四国七遍供養塔 ・百八十八箇所供養塔の3基が並んでいる。

 その右隣に小さな道標がある。刻まれている文字は正面に「川越道 小川道」とあり、側面に「赤沼入口」。

 さらに数分歩くと「馬頭観音」(右)が祀られている。
旧道はこの先から笛吹峠入口の大橋まで消滅。県道下の畦道が旧道のようだが場所は定かではない。

 一旦県道に出て保健センターの前から畑の方に下って行くと「街道杉があった」(左)という墓地の辺りが見渡せる。 この辺りを旧道が通っていたようだが、今はその痕跡が見つからない。

 さらに先へ進み 「鳩山中学校」(右) まで来ると、グラウンド端のフェンスの上に鎌倉街道の説明板が設置され、地図も併記されている。

 別の資料によると、鎌倉街道は鳩山中学校の敷地内を通っていたようだが、今はその痕跡も無くなってしまったのだとか。

 県道に戻り十数分歩いたらちょっと寄り道を。

 向かった先は建保6年(1218)創建の古刹 「金澤寺(こんたくじ)(左)。寄り道した目的は南北朝時代の嘉慶2年(1388)に造立されたという「十三仏板碑」を見るためであったが、残念、見つからんのです。

 県道に戻り大橋交差点まで来ると道路際に「石仏・石塔群」(右)が。馬頭観音、庚申塔、地蔵などと共に巡礼供養塔などが並んでいる。

 消滅した旧道はこの辺りに来ていたようだが詳しくは分からない。この先は新橋を渡って笛吹峠に向かうのだが、かなり先まで公共交通機関が無い。ここはバスの終点である大橋停留所から坂戸行のバスに。

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