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金沢街道 道中記
街道地図

 源頼朝が鎌倉に幕府を開いた最大の理由は、三方を山に囲まれ前は海という天然の要害であったことだが、
一方で人々の往来や物資の運搬にはこれが最大の障害となった。 そこで鎌倉幕府は七方向に切通しを作り
陸路の確保を行ったが、これを「鎌倉七口」あるいは「七切通し」と呼んでいる。

  七切通しの中でも往時の姿を最もよく残しているのが 朝夷奈(あさいな)切通 しだが、この道は金沢八景の
瀬戸神社前から鶴岡八幡宮前までで、六浦湊に荷揚げされた物資の運搬に利用されたことから「六浦道」と
呼ばれていた。(現在は金沢街道と呼ばれている)

 朝夷奈切通しの道は、県道金沢・鎌倉線が出来る昭和31年(1956)までは東京湾側から鎌倉に入るための
重要な道路であったという。


今回歩いたコース
 金沢八景の琵琶島神社をスタート 瀬戸神社 六浦交差点 環状4号 朝比奈町の朝夷切通入り口
朝夷奈切通 熊野神社 三郎の滝 十二所 二階堂 筋違橋 鶴岡八幡宮三の鳥居前
街道の距離は約8kmだが、あちらこちら寄り道した結果、2万6000歩、約18kmを6時間掛けて歩いた。

平成26年10月17日

 金沢街道(六浦道)のスタートは瀬戸神社前であるが、その前にぜひ寄り道したい場所が。
国道16号を挟んで瀬戸神社と反対側に海に突き出たような島があるがここは琵琶島と呼ばれており、小さな神社がある。
 参道入り口の大きな石は「福石」(上左)。源頼朝が瀬戸神社参拝の折り、禊(みそぎ)をした時に衣服を掛けた石なのだそうだ。
鳥居をくぐるとその先は「参道の松並木」(上中)。「松並木越しに見える海」(上中)の景色に何とも言えない風情がある。
 参道の突き当りは「琵琶島神社」(上左)。 治承4年(1180)、源頼朝が伊豆の三島明神を勧請して瀬戸神社を創建した際、夫人の
北条政子が琵琶湖の竹生島弁財天を勧請して創建したと言い伝えられている。

 琵琶島を出たらもう少し寄り道を。

 向かった先は「瀬戸橋」(左)。かつては、狭い海峡だが海水が渦巻く難所、舟で渡るのは容易ではなかった。 嘉元3年(1305)、北条氏は海峡に島を築き二つの橋を架けたのが瀬戸橋の最初であった。


 瀬戸橋を渡って上流へ100m、見えた松林は「姫小島跡」(右)。
解説板に 「その昔 照手姫がこの島にて松葉いぶしの難に遭いたるを 土地の人哀れみ 呼んで 姫小島という 」 と記されている。

 金沢街道(六浦道)を歩く前に、まずは瀬戸神社(左)にお参りを。

 治承4年(1180)、鎌倉に幕府を開いた源頼朝は伊豆三島明神の分霊を勧請して創建。北条氏や関東官領足利氏の崇敬を受け、徳川家康も参拝したという。権現造りの現社殿は寛政12年(1800)の建立。

 六浦道のスタートは「瀬戸神社前」(右)。玉垣前の道は真っ直ぐ金沢八景駅前に続いていたのだが、マンション開発で途中が消滅。ちょっと回り道して金沢八景駅前に出たら道なりに進み国道に合流。

合流したら右に曲がるのだがここでもちょっと寄り道を。

 国道を横断して向かった先は「金龍院」(左)。南北朝時代、鎌倉・建長寺の方崖元圭禅師が開山した古刹で、この寺にあった硯から龍が昇天した、ので「昇天山金龍院」と名付けられたという。

 金龍院裏山の展望台「九覧亭」(右)は金沢八景巡りの旅人が必ず立ち寄った名所。 昭和初期までは茶店もあったという。 その眺望は平潟湾を中心に金沢八景と富士山までも。 今も素晴らしい?

 お願い:九覧亭に登るには御住職の許可を得て下さい。

 街道に戻り国道を横断するとその先は「泥牛庵」(左)。寺院とは思えない名前だが「泥牛月吼」という禅の言葉が由来だそうです。ちなみに山号は「吼月山」。

 鎌倉時代末に円覚寺第11世南山士雲が隠居所として創建したと伝わっている。

 階段を上った山門脇に、ちょっと痛みが激しいが「3基の庚申塔」(右)と猿田彦大神がある。境内に入ると、地蔵尊と庚申塔が小さな祠に収まっているが、お地蔵様には真っ赤な涎かけが。

街道は、泥牛庵を出たらその先の六浦交差点で右に曲がり、すぐに左側の旧道に入って行く。

 旧道を出たら「上行寺」(左)に寄り道を。

 元は真言宗の寺であったが、建長6年(1254)に日蓮が六浦の浜に到着した縁から日蓮宗に改修。その日蓮の船が到着したと伝わる場所が山門付近で、山門を入ると船繋ぎの松跡の標柱が建てられている。

 本堂の手前にある巨木は日荷上人が身延山より持ち帰って植えたとされる「榧の木で樹齢は700年」(右)だという。榧の木の下には日荷上人の墓がある。 

 上行寺から5~6分、長生寺で見たのは「樹齢370年の椿」(左)。寛永20年(1643)に植樹されたという古木も珍しいが、花びらが1枚ずつ散るという椿らしからぬ椿なのだそうだ。

 長生寺の先で旧道に入るが、5~6分歩いて環状4号に合流したら光傳寺に寄り道を。

 光傳寺で見たのは「樹齢500年のビャクシン」(右)。 
そばで見るビャクシンの幹は節くれだって凄い迫力。風雪五百年の歴史が迫ってくる。

街道左手、山の上にある宝樹院は小泉家の菩提寺。境内には小泉又次郎、純也の墓と小泉純一郎の総理大臣就任記念樹などが見られる。

 街道右側に説明板が。近づいてみると「鼻欠地蔵」(左)と記されている。「崖に彫り込まれた像の高さが4m余りの磨崖仏で、風化して鼻が欠け落ちているので・・・・・・」と記されているが今は姿も分からない。

 いつ頃、誰が彫ったのか不明だそうだが、江戸名所図会にこの地蔵の挿絵があることから200年以上前か。

 鼻欠地蔵から5~6分、右に下ると僅かな区間だが「鄙びた雰囲気の旧道」(右)が味わえる。4~5分歩き環状4号を横断するといよいよ朝夷奈切通に入っていく。

環状4号を横断し、「朝夷奈切通」の案内表示に従って狭い道をしばらく歩くと車止めがあるが、ここが「朝夷奈切通の入り口」(下左)。
傍らには「朝夷奈切通碑」(上)や「説明碑」(上)、説明板などが設置されており、
車止めを越えると「庚申塔」(上右)がずらーっと並んで出迎えてくれる。

 仁治2年(1241)、鎌倉幕府は鎌倉と六浦を結ぶ重要道路として開削。執権北条泰時が自ら出向いて工事を指揮したという。

 高速道路の下を通りしばらく歩くとまさに「切通し」(左)。この道が開かれると六浦湊に陸揚げされた物資や金沢特産の塩はこの切通しを通って鎌倉へ。峠の大切通(おおきりとおし)近くには茶店もあったという。


 ほどなく峠近くの「分かれ道」(右)に差し掛かる。
ここに建てられた道標には「左 熊野神社 右 かまくら道」と。
熊野神社へは5~6分の距離。ちょっと寄り道を。

 「熊野神社」(左)は源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、鬼門に当たる北東方向の朝夷奈山上に熊野三社権現を勧請したのが始まりとされている。その後、切通し開削の指揮をした北条泰時が社殿を建立。


 何回か再建や修築が行われているが、「現在の本殿」(右)は氏子の寄進により昭和53年(1978)に再建されたもので、拝殿も平成元年(1989)に再建されている。
 

分かれ道まで戻り かまくら道 に入ると、これまでの上り坂から「下り坂」(上左)に変わる。
途中の「石塔」(上)や「石仏」(上)を眺めながら10分ほど下ると、
ぬかるんだ道になり足元が悪くなってきた。

 ほどなく車止めが見えて朝夷奈切通は終わりとなるが、その左側にあったのは「三郎の滝」(左)。一夜で切通しを開いたとう伝説が残る朝夷奈三郎義秀に因み 三郎の滝 と名付けられたという。


 滝の傍らに「朝夷奈切通碑」(右)が建てられている。石碑には
 「鎌倉七口ノ一ニして鎌倉ヨリ六浦へ通ズル要街ニ當リ大切通小切通ノ二ツアリ、土俗ニ朝夷奈三郎義秀一夜ノ内ニ切抜タルヲ以テ其名アリト傳ヘラレルモ・・・・・・・」とある。

朝夷奈切通を出たら太刀洗川沿いに下っていくと県道の金沢街道に合流。  鎌倉は寺社仏閣の多い所、この先は寺社に寄り道しながら。

 県道に合流すると道路の向う側で「お地蔵さん」(左)が出迎えてくれる。きっと江戸時代の昔から旅人を見守ってきたのだろう。


 お地蔵さんの脇を通って「十二所(じゅうにそ)神社」(右)へ。
山裾にひっそりと佇む神社だが、元々は光触寺境内にあった熊野十二所権現。天保九年(1383)に現在の場所に移されている。

 次に向かった先は光触寺(こうそくじ)。本堂前の小さな祠に鎮座しているのは「塩嘗地蔵」(左)。

 六浦の塩売りが朝夷奈切通を通って鎌倉に来るたびに光触寺のお地蔵様に塩をお供えし、帰りに見てみると塩が無くなっていたという。きっとお地蔵様が嘗めてしまったのだろう。

 光触寺から10分、茅葺の建物は鎌倉幕府の四代将軍藤原頼経が祈願所として建立した「明王院」(右)。五大明王が祀られていることから五大堂と呼ばれているが、境内撮影禁止のためちょっと遠景で。

 明王院を出て街道をてくてくと十数分、「浄妙寺」(左)に寄り道を。
源頼朝の重臣・足利義兼が建立した鎌倉五山第五位の由緒ある禅宗の寺で、室町時代は境内に二十三の塔頭を持つ大寺院であった。

 本堂前の境内は広々として日当たりが良く、なんとも気持ち良い。

 本堂裏手の墓地内に、室町幕府初代将軍足利尊氏の父である「足利貞氏の墓」(右)がある。

 浄妙寺を出て県道を横断し今度は「報国寺」(左)に寄り道を。
この寺は足利貞氏の父である足利家時の開基であるが、上杉重兼もかかわっており、足利、上杉両氏の菩提寺でもあった。

 山門(薬医門)を入ると手入れの行き届いた庭が気持ち良いが、この寺院は「竹の寺」とも呼ばれるほど「竹林」(右)が有名。

 竹林に入ると奥に建物がみえるが、ここは「休耕庵」という茶店。
ここで抹茶を頂きながら眺める竹林は格別。  日本人でよかった~

 報国寺を出たら谷戸道をもう少し奥まで歩くと 国登録有形文化財 の「旧華頂宮(かちょうのみや)邸」(左)が見られる。ハーフティンバー様式の洋風住宅は昭和4年(1929)に華頂博信侯爵邸として建てられたもの。

 内部の見学はできないが前庭に回り広々とした「フランス式庭園から眺める華頂宮邸」(右)も素晴らしい。

 コメント:春・秋の2回、内部の一般公開が行われている。

街道に戻り4~5分歩いたら階段を上って「杉本寺」(左下)へ。

 杉本寺は鎌倉幕府が成立する五百年も前の奈良時代に行基が開いたとされる古刹。 鎌倉最古の寺だという。本堂の奥深くに安置されている本尊の十一面観音像は国指定の重要文化財。

 再び街道を数分、小さな橋を渡るがこの橋を「歌の橋」(右)という。

 傍らの説明碑によると、建保元年(1213)、謀反の罪により誅されんとした渋川兼守の歌十首に感激した将軍・源実朝が兼守を許し、そのお礼に兼守がこの橋を架けたことからこの名が付いたという。

 歌の橋から数分、街道際の朱に塗られた鳥居を潜り五分ほど歩いて到着した場所は「荏柄天神社」(左)。日本三大天神の一つに数えられている。

 平安時代の中頃、雷雨とともに天神の姿絵が舞い降りてきたのを里人が敬い、神社を建てて祀ったのが始まりだとか。源頼朝が大倉に幕府を開くと、その鬼門を守る神社として崇めたという。

 拝殿の左手前にひっそりと佇んでいる大石はかっぱ筆塚」(右)。河童の漫画を描き続けた清水崑氏が絵筆を供養し建てた碑だそうだ。

 次に向かった先は大倉幕府跡。

 治承四年(1180)、鎌倉入りした源頼朝は大倉郷に御所を建て幕府を開いたことから大倉幕府と呼ばれていた。 現在の清泉小学校周辺一帯で、小学校の角に「大倉幕府跡碑」(左)が建てられている。

 さらに奥に入り階段を上がると「源頼朝の墓」(右)がある。正治元年(1199)、53歳で亡くなると法華堂に葬られたが、法華堂は廃絶。頼朝の墓は後に島津藩主・島津重豪によって建立されたもの。

 
 大倉幕府には東西南北4カ所に門があったと云われているが、
西御門(みかど)跡と東御門(みかど)跡にそれぞれ「御門碑」(左)が
建てられている。

 ちなみに、南御門は頼朝の墓に通ずる参道入り口と六浦道が
交わる場所にあったそうだが、定かではない。

 再び街道に戻り4~5分、道は左に曲がるがこの角に「筋替橋碑」(左)が、その下には筋違橋碑が建てられている。

 かつては鎌倉の中心地であったこの場所に西御門方面から川が流れており、そこに架けられた橋が道路に対し斜めであったことから筋違橋と呼ばれたそうだ。

 街道はこの先で直角に右へ曲がると4~5分で「鶴岡八幡宮三の鳥居」(左)前に到着。金沢街道の終着です。

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