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金沢道 道中記   ..  かねさわみち                   街道地図

 東海道・保土ヶ谷宿のちょっと手前に金沢(かねさわ)横町という十字路があるが、ここから上大岡さらに能見堂を経て金沢八景に
至る道を 金沢道(かねさわみち)と呼んでいる。
 この道は江戸庶民の身近な行楽地であった金沢八景へ行くための道として、さらにその先は朝夷奈切通を通って鎌倉へ抜ける
金沢街道(かなざわかいどう)に繋がっていたため、多くの旅人がこの道を通って鎌倉、江の島巡りの旅を楽しんでいた。

平成26年10月29日
今回歩いたコース
保土ヶ谷・金沢横町前⇒岩名坂⇒清水ケ丘⇒蒔田橋⇒(現)鎌倉街道⇒上大岡⇒笹下釜利谷道路(県道22号)
能見堂跡⇒金沢文庫⇒瀬戸橋⇒瀬戸神社前


 「旧東海道」(左)を保土ヶ谷宿に向かって歩くと金沢横町と記された標柱が十字路の向うに立っている。ここは金沢・浦賀往還への出入り口で十字路の左手に「道標が4基」(右)。

 一番右の道標には「円海山之道」と刻まれ天明3年(1783)建立。
次は「かなさわ かまくら道」と刻まれ天和2年(1682)建立。
3番目の道標には「杉田道」と刻まれ文化11年(1814)建立。
一番左側は「富岡山芋大明神社」と刻まれ、弘化2年(1845)の建立。

 観光や信仰の道がこの先で分かれていたことから4基もの道標が。

金沢横町から東海道線の踏切を渡って金沢道に出発だ。 と思ったら踏切が閉鎖されている。線路際の工事の影響らしい。

 思わぬ回り道して「岩名坂」(左)の下に到着。ここから住宅地の間の坂道を上っていくのだが、この坂道を別名「岩難坂」とも言ったらしい。結構長く急な上り坂なので 難坂 と言われても納得だ。

 坂を上り始めると左に上る急階段があるが、その上は福聚寺。
ここに変わった人物の墓がある。

 階段を上り、本堂の裏手に回ると「五返舎半九の墓」(右)が。
十返舎一九の弟子であったことから 五返舎半九 。人を食った筆名だが、幕末の戯作者で十篇近い作品があるとか。

 福聚寺を出て坂道を上っていくとちょっと荒れた感じの石段が。上ってみると地蔵尊などの「石仏」(左)が並んでいる。云われが無いため詳しいことは分からないが、近辺の石仏を集めたようだ。

 石仏群の階段を下りると向う側に見えたのは「政子の井戸」(右)。
源頼朝の妻政子がここを通りかかった時、この井戸の水を汲んで化粧に使用したと伝えられ、「御所台の井戸」とも呼ばれている。

 保土ヶ谷宿の苅部本陣に将軍が休息したときはこの井戸水を御膳水として使用したという。

 坂を上り切ると十字路の向う側に「北向き地蔵」(左)が鎮座している。享保2年(1717)、僧三誉伝入が建立したもので台座部分が道標になっており、「是より左の方かなさわ道」と刻まれている。

 ならば左へと坂を下ると再び上り坂となり首都高狩場線の上に出る。橋上からの眺めが素晴らしい。「富士山」(右)が真正面に見えたが、これからの冬場はもっと良く見えることだろう。

 この先は清水ヶ丘公園の脇を通って坂道を下り、京浜急行のガードをくぐって広い道路に出たらちょっと寄り道を。

 4~5分歩いた先の大光寺本堂前の植込みの中に道標を兼ねた「地蔵」(左)が鎮座している。何故この地にあるのか不明だが台座部分に刻まれた文字は「かねさハ かまくら 道」。


 街道に戻り数分歩くと右手奥の三叉路に「井土ヶ谷事件跡」(右)が見える。生麦事件と同じ外人殺傷事件だ。文久3年(1863)、フランス士官が浪人体の男に殺害されたのだそうだ。

 ほどなく「大岡川」(左)を蒔田橋で越え鎌倉街道に入るのだが、しばらくは鎌倉街道を歩く事になる。

 ところで、この先の鎌倉街道や笹下・釜利谷道路は何回も大岡川や笹下川を越えていくが、金沢道は微妙にこれらの川を避け、蒔田橋以降は峠越えまで一度も橋を渡ることは無い。

 鎌倉街道に入ったらしばらく見どころ無し、と思ったら「地下鉄搬入の跡」(右)なる標柱が歩道際に。横浜地下鉄が開通した当時は車両基地が無かったため車両をクレーンで地下に降ろしたのだそうだ。

 鎌倉街道をテクテクと15分、弘明寺(ぐみょうじ)の横浜国大付属中学前に「鎌倉街道碑」(左)がベンチの間に立っている。バス停のそばなのでいつもベンチに人が。なかなか写真が撮りずらい。

 その先から旧道に入るのだが、とたんに静かな街道に変わる。昔の面影は感じられないが静かな街道がいいんだよ。

 20分ほど旧道を歩き再び現・鎌倉街道に合流するとその先は京浜急行の「上大岡駅前」(右)。ここからは右側の旧道へ。

 旧道を10分ほど歩き関ノ下交差点で鎌倉街道を歩道橋で横断し「笹下釜利谷道路」(左)へと入っていく。

 しばらく歩いた先の東樹院本堂前に「タヌキと女性像」(右)が。この寺にはタヌキと美しい女性の伝説が残されている。

 むかしむかし、この寺に一夜の宿を借りに来た美しい女性がお礼に2枚の絵を描き茶釜を置いていったという。ある晩、一匹のタヌキが犬にかみ殺されていたが、そのタヌキは茶釜を置いていった女性の着物を着ていたのであった。和尚さんはそのタヌキをねんごろに葬り、茶釜を寺の宝にしたのだという。

 しばらくは笹下釜利谷道路を歩き新川橋の手前で「再び旧道へ」(左)。その先は笹下川に沿って路地裏のような道を歩くのだが、風情があっていいんだなーこの道が。

 20分ほど歩くと街道際に「馬頭観音」(右)があり、その先で笹下釜利谷道路に合流。そこに「かねさわ道の説明板」がある。

 説明板には「鎌倉・江の島の名所を遊覧する人々でこの道が賑わいました。また黒船来航で騒然としたころは江戸と三浦半島との間で飛脚や沿岸防備の武士が頻繁に往来しました」とある。

笹下釜利谷道路に合流したらJR根岸線のガード下を通り、環状1号を横断してまたまた旧道へ入っていく。
 竹藪脇の道を通り、  笹下川沿いを歩き、  大規模宅地開発の端を歩き、
 公園の手前を右に曲がり、
 数分歩くと突然視界が開ける。

 視界が開けたのは良いのだが、見えるのはビッシリと並んだ家並ばかり。そんな景色を眺めながら歩くと真っ赤に塗られた祠が。

 祠の中のお地蔵さんは享保4年(1719)に建立された「岩船地蔵」(左)。栃木県の岩船山高勝寺のお地蔵さんを勧請したのだという。


 この先は大規模宅地開発の影響で金沢道は消滅状態。近い道を選んで住宅地の中を歩き、横浜横須賀道路を越え、水道局施設の横にある「能見堂緑地入口」(右)と記された標柱の脇から森の中へ。
 

 能見堂緑地は大規模宅地開発の中に残された貴重な森。「この緑地内に金沢道」(左)が残されている。 今までの道とはガラっと変わり、江戸時代もこんなだっただろうと想像しながら歩くことができる。

 ほどなく「谷津関ケ谷不動尊」(右)の案内があるので左の道を下っていくと常夜灯の向うに御堂が。元々は不動山にあったのだが宅地開発の影響で現在地へ遷座。今でも初不動は大変な賑わいだそうだ。

 関ケ谷不動からさらに長い階段を下ると山裾に不動池が。お不動様に係わる伝説がありそうだが、この池には何も無い。

旧道に戻るために不動尊の長い階段を上るのだが、これが結構辛い。

 ほどなく「能見堂跡」(左)に到着。 歴史は古く、平安時代に藤原道長が結んだ草庵が始まりと云われているがその後廃絶。寛文年間(1661~73)に領主の久世大和守広之が江戸増上寺の地蔵を移し再興。

 能見堂の名の由来は諸説あるが、地蔵を本尊とする六道能化が訛って「能見堂」になったのではないかと。

 一角に享和3年(1803)に建てられた「金沢八景根本地碑」(右)があるが、ここは大変景色が良い場所。明の渡来僧・心越禅師が金沢八カ所の勝景を漢詩に詠んだことで金沢八景という名称が定まったという。 

 景色が良かったことの証しとして次のような逸話がある。

 平安時代初期、宮廷絵師・巨勢金岡(こせのかなおか)がここから金沢の勝景を描こうとしたが、内海の潮の干満で時々刻々と変化する絶景に筆が進まず、ついに絵筆を松の根本に投げ捨てたという。

 その松を「筆捨の松」(左)と言い、明治時代に写真に撮られている。

 街道は「能見堂跡から下り坂」(右)となるが、しばらくは落ち葉を踏みしめながらの風情ある道が続く。

 その先の切通しを出ると住宅地。一気に現実世界に引き戻される。住宅地の中を通り、京浜急行の踏切を渡って国道16号へ。
この先金沢八景までは神社仏閣が多い。その幾つかに寄り道を。

 国道沿いの君ケ崎稲荷神社の「軒下彫刻」(左)に真っ白な狐が遊んでいる。屋根の飾り瓦も初めて見る狐像。社殿横には狐像の後ろに不動明王像、その横には無縁仏供養塔、なんとも変わった神社だ。

 金沢道は神社の先で国道と別れ旧道へ入っていく。

 幾つかの神社や寺院を通り過ぎたあと立ち寄ったのは安立寺。
本堂前にある「横浜市指定の古木である黒松」(右)が見事。盆栽を大きくしたような。

 安立寺のすぐ先、龍華寺の山門をくぐると茅葺屋根の「鐘楼」(左)が目に入るが、ここに下がっている梵鐘は室町時代の天文10年(1541)の鋳造。この寺にも横浜市指定の黒松の古木がある。

 龍華寺の隣は「洲崎神社」(右)。元は海に長く突き出た長浜千軒と言われた場所にあったが津波で流され移転。その移転先がなんと道路の真ん中だったという。明治37年(1904)に現在地へ再移転。

 社(本殿)は天保9年(1838)に再建されたもの。元々は第六天社であったが明治初年の神仏分離令によって洲崎神社に改名している。

洲崎神社を出たらちょっと戻って路地のような狭い道に入り道なりに4~5分。

 広い道に突き当たったら右に曲がると第一生命ビルが見えるが、ここは「料亭東屋があった場所」(左)。

 道路際に明治憲法起草の地説明碑が建てられている。 それによると、明治20年(1887) 伊藤博文、伊東巳代治、金子堅太郎、井上毅 らが料亭の東屋に集まり憲法草庵の構想を練ったのだそうだ。

 すぐ先は「瀬戸橋」(右)。 ここは狭い海峡だったため潮の流れが早く船で渡るのは容易ではなかった。そこで北条氏が海峡の出入り口に島を築き二つの橋を架けたのが嘉元3年(1305)であった。

 瀬戸橋を渡り国道16号を歩道橋で横断すると、そこは「瀬戸神社」(左)。

 治承4年(1180)、鎌倉に幕府を開いた源頼朝は伊豆三島明神の分霊を勧請して創建。
北条氏や関東官領足利氏の崇敬を受け、徳川家康も参拝したという。権現造りの現社殿は
寛政12年(1800)の建立。

 金沢道はこの先の六浦陣屋前までと云われているが、瀬戸神社前から鎌倉へ通じる
金沢街道がスタートするので金沢道の歩き旅はここまでとした。

 朝夷奈切通を通って鎌倉へ通じる金沢街道の道中記はこちら

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