川越街道 道中記
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平尾追分                                  街道地図
 ひらお おいわけ                  
日本橋を出発した中山道の最初の宿場が板橋宿で、日本橋側から平尾宿、中宿、上宿の三宿に分かれている。
川越街道は平尾宿の中の『平尾追分』が起点となっていた。残念ながら石碑や表示の類は無い。
 
 
平尾追分上板橋宿下練馬宿白子宿膝折宿大和田宿大井宿川越城御殿小江戸川越
 平成25年4月1日
 
平尾追分がある板橋宿はJR板橋駅が最寄駅。滝野川口改札を出るとすぐの場所に「近藤勇の墓」(左)がある。

慶応4年(1868)、新撰組局長であった近藤勇は板橋宿手前の刑場で処刑され首級は京都へ。 胴体はこの場所に埋葬。後年、隊士の一人であった永倉新八らによってこの墓を造立。

近藤勇墓の前を数分歩くと「旧中山道」(右)に合流。向う先は中山道・板橋宿。

JR埼京線の踏切りを渡り程なくすると国道17号の広い交差点に差し掛かるが、その向こうが中山道と川越街道を分ける「平尾追分」(左)。真っ直ぐ行く道が旧中山道で左に曲がる道が川越街道。

板橋宿は江戸側から平尾宿、中宿、上宿の三宿で構成されていたが その平尾宿がこの辺り。 しかし残念ながら『平尾』という地名は無くなってしまった。

何かないかと探したら「平尾交番」(右)がありました。交番がこの地名をしっかりと守っていたのです。

せっかくなので平尾宿辺りを散策。 追分を左に曲がらず右に行った先の東光寺「宇喜多秀家の墓」(左)がある。

関ヶ原合戦で豊臣方に付いた宇喜多秀家は一族共々八丈島遠島となり秀家は八丈島で永眠。この墓は明治に入って赦免され東京に戻った宇喜多家が建てたもの。

追分まで戻り宿場に足を踏み入れると、観明寺入口の祠に収まっていたのは「庚申塔」(右)。この庚申塔は都内最古のもので寛文元年(1661)の造立。

観明寺から数分先の路地を入るとマンションの前に石碑と説明板が建てられているが ここは「平尾脇本陣」(左)があった場所。

脇本陣を務めていた豊田家は徳川家康が関東入国に際し三河より移住してきたと伝えられている。

街道に戻ると「唐破風の玄関に高い煙突、これぞ銭湯」と思わせてくれたのは「花の湯」(右)。銭湯の最盛期だった昭和42年(1967)に建てられたそうだが今も人気の銭湯だとか。  コメント:銭湯は閉店・解体され今はありません。

「追分」(左)まで戻りいよいよ川越街道の旅に出発。今は首都高の高架 と ビルに挟まれた歩道を行くため とてもじゃないが江戸時代を想像することはできない。

数分歩いたら国道17号を横断し、さらに数分先の四ツ又交差点まで来たらちょっと寄り道を。

向った先は子易神社であるが途中の「宗仙寺」(右)に立ち寄ってみると しだれ桜があまりに綺麗なので思わず1枚。

宗仙寺を出て坂を下った先が「子易神社」(左)。もともとは子安社であったが明治初期に子易神社に改名。こじんまりとした良い雰囲気の神社だ。

鳥居脇の「地蔵堂」(右)に収められているのは元禄8年(1696)造立の身代わり地蔵。 別名『胸突き地蔵』とも呼ばれているそうだが台座に「右上尾  左河越」と刻まれた道標でもあった。

街道に戻る前にもう一カ所寄り道を。道路際の粗末な祠に収められているのは「四ツ又観音」(左)。聞くところによると高速道路の工事で仮移転させられ、そのままになっているのだとか。可哀そうに。

街道に戻り山手通りを横断すると「YOU-ZA OYAMA商店街」(右)に入るのだが、ここが何ともいえない味がある。昔懐かしい自転車屋があり靴屋があり、雑貨屋、洋品店、床屋までがなんとも懐かしい。

旧川越街道はこの先も商店街の中を歩くのだがビックリするような風景が待っていた。

 コメント:板橋宿の詳細は「中山道道中記・板橋宿」をご覧ください。

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