川越街道 道中記
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大和田宿                                      街道地図
 おおわだじゅく
大和田宿には本陣・脇本陣が設けられていなかったが「新編武蔵風土記」によると140軒の家があったというから
結構な賑わいの宿場であった。しかし今の大和田には宿場時代の面影がほとんど見られない。大和田宿に入る前に、
ちょっと遠いが寄り道を。向った先は13万坪の境内を有する武蔵野の古刹・平林寺。
平尾追分上板橋宿下練馬宿白子宿膝折宿大和田宿大井宿川越城御殿小江戸川越
 平成25年4月19日
 
膝折宿を出て たびやの坂 を上り県道を5〜6分、野火止大門交差点まで来ると交差点の向こうに「萱葺きの民家」(左)が見えるではないか。農家らしいが現役の萱葺き民家とは珍しい。

珍しいことがもう一つ。庭に鶏が放し飼い。50年ほど昔にタイムスリップしたような。

 交差点際に「平林禅寺」(右)と刻まれた寺号石標が建てられているので ちょっと遠いが寄り道を。

大門交差点から15分ほど歩くと平林寺の北の外れに到着。しかし入口はまだまだ先。境内林に沿って10分ほど歩くとやっと入口である。国の天然記念物に指定されている13万坪という広大な境内林を持つ平林寺は南北朝時代の永和元年(1375)に岩槻城主・太田備中守によって開基。その後、川越城主となった 松平伊豆守信綱 の遺言により寛文3年(1663)に現在地の野火止に移転。

平林寺は総門・山門・仏殿・中門・本堂が一直線に配置された典型的な禅宗様式の伽藍配置。
岩槻から移築したもので正保5年(1648)に
京都詩仙堂の石川丈山によって揮毫された
『金鳳山』 の扁額が掛けられている。
岩槻から移築した山門楼上には南北朝時代の
十六羅漢像、室町時代の釈迦如来像、江戸時代
初期の文殊・普賢菩薩像が安置されている。
仏殿も岩槻から移築したもので、須弥壇には
南北朝時代の釈迦如来座像と室町時代の伽葉
・阿難の二尊者を安置している。
注意:極めて広い境内を持つ平林寺であるが出入り口は総門一箇所のみ。

伽藍左手の墓地に見落とせない墓が幾つかある。
島原の乱を収めた松平信綱に由来する
供養塔で、家臣であった大嶋左源太が
文久3年(1861)に建立したもの。
豊臣五奉行の一人であった長盛は関ヶ原
合戦後、岩槻城主・高力清長のもとに幽閉。
大阪落城後に自害し、岩槻の平林寺に葬ら
れたが、後に当地に改葬。
武田信玄の次女で穴山梅雪の正室。
家康や鉄山禅師(平林寺住職) と懇意で
あったことから、後に供養塔が建てられた
夏目漱石の草枕に登場する美人・那美の
モデルとされる前田卓(つな)が眠っている。

本堂の裏手に見事な五輪塔と石灯籠が並ぶ墓所があるがここは大河内松平家の廟所。広さはなんと3千坪とも。 その一角は「松平信綱公の墓」(左)。

信綱は三代将軍家光、四代家綱の老中として活躍。小江戸川越の基礎を造ったり 野火止用水を引くなどの功績が大きい。菩提寺の岩槻・平林寺を移転させるよう遺言して寛文2年(1662)に逝去。

松平家廟所のさらに奥に築かれた小山は「野火止塚」(右)。野火の見張り台 と云われているが残っているのはここだけ。

野火止塚伝説がある野火止台地は生活用水にも難渋する地。 川越城主であった松平伊豆守信綱はここを開墾するために25kmに渡る「野火止用水」(左)を開削。これにより大規模な新田開発が進められた。

野火止塚伝説 : 平安時代の初め、この地を治めていた藤原長勝が在原業平を招いたところ、業平は長勝の娘に一目ぼれ。駆け落ちしたが追っ手に火を放たれ危うい事に。娘が「武蔵野は 今日はなやきそ 若草の・・・・・」と詠うと瞬く間に野火が消えたのだった。野火が消えたところが野火止塚だと云われており野火止の地名の由来となっている。

街道に戻り十数分、右奥は野火止と大和田宿の境界に設けられた神明神社(右)。この先から大和田宿となる。

大和田宿に入って5〜6分、右側の高台に元禄9年(1696)に建立された 「鬼鹿毛の馬頭観音」(左) が鎮座しているが次ぎのような伝説が。

秩父の小栗という人、江戸に所用があり名馬・鬼鹿毛で江戸に向ったが馬が松の根につまずき転倒。しかしすぐに起き上がり主人を江戸まで届けたと言う。所用を終えた小栗が馬繋ぎまで戻ると鬼鹿毛の姿が無い。しかたなく大和田まで戻ると鬼鹿毛の亡骸があったという。主人の急を知り亡霊となって走り続けた鬼鹿毛であった。

すぐ隣の石碑は「芭蕉句碑」(右)。    花は賤乃 眼にもみえけり 鬼薊(あざみ)  はせを

馬頭観音前から真っ直ぐな緩い下り坂(大和田坂)が続くが この辺りは「旧大和田宿下宿辺り」(左)。ここから下宿、中宿、上宿と続いていた。

1〜2分歩くと道路向こう側に「地蔵菩薩と庚申塔」(右)が見えるが この地蔵は享保13年(1728)に建てられたもの。地蔵と庚申塔が僅かに江戸時代を感じさせてくれる。

坂を下りきった先に「観音堂と地蔵菩薩」(左)があるが この辺りが中宿と上宿の境。かつては旅籠が並び飯盛り女でなかなかの賑わいをみせていたそうだ。

街道はほどなく柳瀬川に。江戸時代は英(はなぶさ)橋という土橋であったが今は無粋な「コンクリートの英橋」(右)。

この先は国道工事で旧街道が失われてしまったが、橋を渡り、人専用のトンネルを潜り国道254号に合流。しばらくは現川越街道をてくてくと。

上り坂の途中、左手高台に見えるのは「富士塚」(左)。梯子かと思えるような急階段を上ると「三國第一山」と刻まれた石碑が建てられている。上部に富士山の線画が描かれているのが愉快だ。

梯子のような階段を降り、そのまま左側を進むと「木鼻彫刻」(右)が施された軒先が見えるではないか。甲州街道・金沢宿で見たことがあったが民家で木鼻彫刻は珍しい。

旧川越街道はこの先しばらく現川越街道(国道254号)と重なっているので 大型トラックを見ながらの街道歩きとなる。

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