川越街道 道中記
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大井宿                                            街道地図
 おおいじゅく
大井宿は江戸から約八里、あと二里半で川越城大手門である。もともとあった大井郷が川越街道の整備に
合わせて現在地へ移転し宿場へと発展。江戸時代中期には戸数94、人口480人ほどで、本陣、問屋場もあり
賑わった宿場であった。残念ながら明治期に3度の大火があり 町並みのほとんどを消失、宿場時代の面影は
あまり残っていない。
平尾追分上板橋宿下練馬宿白子宿膝折宿大和田宿大井宿川越城御殿小江戸川越
 平成25年4月19日
 
大和田宿を出て柳瀬川を渡り国道254号に合流して15分ほど歩くと中央分離帯に立派な「川越街道碑」(左)が据えられている。

その先の交差点で右側に移ると川越街道説明板があるはず。 が、あることは在ったのだが文字や絵が全く読めない。これはちょっとひどすぎ。

さらに15分ほど歩いた左奥の神社は「木宮稲荷神社」(右)。伝承によれば寛文元年(1661)、中山治左衛門なる人物が大阪在業の際、藤久保に稲荷が降りるという霊夢を見て社殿を建立したのだとか。

寛永16年(1639)に呑海大和尚によって開基した「廣源寺」(左)は江戸時代には寺子屋を開設していたという。阿吽の仁王像が仁王門ではなく本堂の前に鎮座しているのがユニーク。

ふたたび国道をてくてくと5〜6分。またまた中央分離帯に「川越街道碑」(右)が。この辺りの中央分離帯には松や欅、桜の巨木が並んでおり、じゅつ繋ぎの車がなければ良い雰囲気なのだが。

15分ほど歩くと中央分離帯が途切れるが、ここにも川越街道碑が。

 ここから平成25年5月17日

川越街道碑前の交差点で右側に移ると歩道際にひっそりとたたずんでいるのは「庚申塔」(左)。花が手向けられ湯呑茶碗も。大事にされているようだ。

この先の 川越街道説明板 によると現川越街道の上り車線辺りが旧川越街道になるそうだ。が、車道の外側に緑タップリの歩道が設けられているので、さながら、こちらが「旧川越街道」(右)のよう。

 緑たっぷりの歩道が終わり数分歩くと「下木戸跡標柱」(左)が立てられている。ここは大井宿の江戸側木戸があった場所。宿場時代には明け六つ(朝六時)に木戸を開け暮れ六つ(夕六時)に閉じていたという。

その先数分の所に 坂上の稲荷様と村民に親しまれてきた「大井稲荷神社」(右)が鎮座。江戸時代初期には1600坪余の神領を持つ大きな神社だったが幾多の変遷を経て今はこじんまりとした神社。しかし初午のときは大変な賑わいとなるそうだ。

さらに数分歩いて右に曲った奥に「大井戸」(左)が復元されていた。 旧大井町の名の由来となった大井戸で、平安時代に掘られたと推定され昭和52年(1977)に発掘・調査し復元。

街道に戻るとその先左奥に見えるのは大井宿の中心的存在であった徳性寺。残念ながら明治14年(1881)の大火で当時の伽藍は全て消失。

山門左側に弘安4年(1281)造立という「板碑」(右)が据えられている。この年は蒙古襲来の年。台風の神風が無かったら日本の歴史が変わっていたかもしれない。そんな時代に造られた板碑(石塔婆)

徳性寺を出て5〜6分歩くと「大井宿と本陣跡」と記された標柱が建てられているが ここは「新井本陣跡」(左)。

川越藩は江戸に近いため宿泊する事はなく休憩地としての利用だけであったが鷹狩などで訪れた大名は利用していたのだろう。

数分先の瀟洒な洋館は国登録有形文化財の「旧大井村役場庁舎」(右)。昭和11年(1936)の建設であるが当時の最先端デザインが取り入れられ 「大井村と東京の間で一番ハイカラな建物」 であったそうな。

旧川越街道はその先で現川越街道と別れ「旧道」(左)へ。いつもの事ながら旧道に入ると車が少なくなり静かな町並みとなる。

ほどなく交差点際に「角の常夜灯」(右)が立っているが この常夜灯は享和2年(1802)建立。地蔵街道と交差するこの地を角と呼び常夜灯はその真ん中に立っていたのだとか。

5分ほど先の地蔵院(左)は正和3年(1314)に開基された古刹だが昭和27年(1952)の火災で本堂などを焼失 山門だけが無事だったという。その山門前で睨みを利かせているのが阿吽の仁王像。

地蔵院には「樹齢350年という しだれ桜」(右)が参拝客の目を楽しませてくれる。と言っても彼岸頃の話だが今は鬱蒼たる葉桜。 これが満開の時期だったらどんなに見事だろうか。

静かだった旧道もほどなく国道に合流。

その先を左に入った奥に鎮座しているのは「亀久保神明神社」(右)。日本三大奇襲戦の一つといわれる川越夜戦で討ち死にした斎藤丹波少輔の後裔が創建したと云われているが定かではない。

神明神社の先に見える「亀久保の観音様」(右)は大和田宿にあった鬼鹿毛の馬頭観音と関係があるらしい。
秩父の小栗某他3名の武士が火急の用事で江戸をめざし走ったが伊佐沼で1頭の馬が倒れ次ぎの1頭がこの地(亀久保)で倒れ、小栗某が乗った鬼鹿毛は大和田で力尽きたが亡霊が主人を乗せ江戸まで走ったという。

街道に戻り10分ほど歩いたらちょっと寄り道を。
国道254号から右に曲って7〜8分、 5差路の向こう側に見える御堂は「六道の辻の地蔵尊」(左)。

右側の地蔵は台座が六角形で道標になっており6本の道の名前が それぞれの方向に刻まれている。

かつては「つるおか道」 「まちや道」 「新河岸道」 「ふるいちば道」 「引又道」 「江戸道」 の六道が交差する辻であったが ふるいちば道が無くなり今は五差路。

国道に戻り横断歩道を渡った先の高台に鎮座する神社は「鶴ヶ岡八幡神社」(左)。鎌倉の鶴岡八幡宮とは関係なく地名の鶴ヶ岡村が神社名。

説明板によると文政期(1813〜30)ごろ、元々は村の鎮守であった神社を地蔵院(先ほど見てきた寺院)が管理したいと寺側から申し入があり村と寺との間で争いが起きていたようだ。

その説明板に「鶴ヶ岡発生を語る芝開き地蔵尊が祀られている」と記されているが それが参道入口の「鶴ヶ丘厄除け地蔵尊」(右)。

旧川越街道は鶴ヶ岡八幡神社下から再び旧道に。

しばらく歩くと見事な藤棚の下に「藤馬中宿跡」(左)と刻まれた碑が建てられている。川越街道の宿場名には見当たらないので間宿だったのかもしれない。

旧川越街道はこの先しばらくは静かな旧道が続く。

東光寺の前を過ぎて数分、街道際の立派なお堂に鎮座しているのは「開明地蔵」(右)。この近くに川越藩の刑場があったことから首切り地蔵とも呼ばれている。

その先10分ほど歩くと門柱と門扉に守られた祠の中に宝永5年(1708)銘の「庚申塔」と馬頭観音などが。 立派な祠に守られ幸せな庚申さまだ。

さらに十数分歩いた右側高台の砂新田春日神社「本殿」(右)が素晴らしい。川越市指定文化財ということだが彫りの深い彫刻は19世紀中頃の作と推定されている。左側面の琴を弾く婦人像は珍しい。

しばらくは旧道をのんびりと歩き不老川の御代橋を渡ると古民家が1棟。歴史的建物というわけではないが久々に見る古民家にはデイサービスセンターの文字が。

程なく上り坂となるが この坂は「烏頭坂」(左)。坂名の由来は不明だが説明文によると文明18年(1486)頃この地方を遊歴した道興准后の廻国雑記に次のような歌が記されている。

  うとう坂こえて苦しき行末をやすかたとなく鳥の音もかな
 
烏頭坂の途中から左側の階段を上がった先に「熊野神社」(右)が鎮座しているがこの神社には摂末社が大変多い。きっと、どんな願いも叶えてくれることだろう。

烏頭坂を上ると国道254号に合流しその先のJR川越線、東武線の上を歩道橋で渡るといよいよ川越城下が近い。

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