川越街道 道中記
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川越城本丸御殿まで        街道地図
 
太田道真・道灌父子によって築かれた河越城(後に川越城)は江戸時代に入ると江戸の北側の防衛線として
重要視され、代々、幕府の重臣が城主となっている。松平信綱が城主の時代、本格的な拡張・整備が行われ
本丸・二の丸・三の丸や、四つの櫓・12の門・土塁・水掘など近世城郭の形態が整えられた。 明治に入り、
ほとんどの建物が解体されてしまったが解体を免れた本丸玄関と大広間・家老詰所が川越藩17万石の風格を
見せてくれる。
平尾追分上板橋宿下練馬宿白子宿膝折宿大和田宿大井宿川越城御殿小江戸川越
 平成25年5月17日
大井宿を出てかれこれ1時間半、烏頭坂を上りJR川越線・東武東上線を越えると川越の御城下が近い。線路を越え県道39号に入ったらすぐに右へ曲がり寄り道を。

公園奥の高台に鎮座しているのは「浅間神社」(左)。

当神社は康平年間(1058〜65)、源瀬義が奥州征伐に向う途次に分霊し、長禄元年(1457)に太田道灌が再営したという長い歴史がある。拝殿が建てられている場所は浅間神社古墳の上。

神社の下に「萬葉遺跡 占肩之鹿見塚」(右)と刻まれた碑が建てられているが万葉集 巻十四の
     武蔵野に占へ肩灼きまさでにも 告らぬ君が名うらに出にけり
と歌われた鹿の肩を焼いて占う習慣の誕生地がこの辺りだという。

街道に戻り7〜8分、路地奥の妙善寺「さつまいも地蔵」(左)が。

寛政(1789〜1801)の頃、九里よりうまい十三里のキャッチフレーズが良かったのか江戸の町で焼き芋が大流行。その芋の供給地が川越。平成に入ってやっと建立されたのがこのお地蔵様。

妙善寺隣の菅原神社(元天神社)境内に祀られているのは「六塚稲荷大明神」(右)。由緒を読むと菅原神社より歴史が長い六塚稲荷であるが今は境内社に格下げのようだ。

10分ほど歩いて左に曲がった奥の突き当たりは長元3年(1030)に創祀されたと伝わる「川越八幡宮」(左)。コンクリート造りの社殿がちょっと味気ないが朱のぼんぼりが並ぶ参道はなかなか味がある。

境内社として祀られている「民部稲荷神社」(右)は、またの名を「相撲稲荷」と呼び面白い伝説が。

侍に化けた老狐が民部と名乗り、毎晩、近所の寺小僧を呼んで話し相手に。不信に思った和尚が民部を寺に呼び酒を呑みながら歓談。ついには寺小僧と民部が相撲を取る事に。翌日、相撲を取った場所を見ると大量の狐の毛が。

もう少し歩くと旧鏡山酒造の仕込み蔵が観光施設として一般開放されているので休憩がてら寄り道を。

街道側から入ると昭和蔵・大正蔵・「明治蔵」(左)と並んでいるが、それぞれが国や県の登録文化財。廃業した施設を川越市が購入し整備したのだが綺麗になりすぎて昔の雰囲気が失われたのが残念。

土産物を買ったり木陰のベンチで休憩したり。疲れが取れたので再び街道へ戻るとその先に見事な「枡形道」(右)が。

枡形道の先を左に入ると またまたお稲荷さん。ここは出世御利益大なる「出世稲荷神社」(左)。数ある出世稲荷の中でもここは抜きん出ている。何故なら、樹齢650年という大銀杏が見守ってくれるのだ。

街道に戻ったら1200年の歴史があるという喜多院に寄り道を。

境内に入るには「どろぼう橋」(右)を渡るのだが なんとも物騒な名前の橋だ。
その昔、喜多院は御朱印地であったため川越藩の町奉行には手が出せない。このことを知っていた泥棒が丸木橋を渡って逃げ込んだのだとか。

喜多院は天長7年(830)慈覚大師円仁によって創建された祈願所がスタート。慶長16年(1611)には徳川家康も訪れ、寺領4万8千坪を拝領。

寛永15年(1638)の川越大火で山門以外の全ての堂宇を消失したが徳川家光の命で江戸城紅葉山御殿の一部を移築。
この関係で客殿に家光誕生の間、書院に春日局化粧の間が残されており見学が可能。

「慈恵堂(本堂)(左)は川越大火の翌年、寛永16年(1639)に再建されたもので慈恵大師良源(元三大師が祀られている。
この建物は県指定の有形文化財。

喜多院のホームページはこちら。 http://www.kawagoe.com/kitain/

喜多院は重要文化財が多いことでも知られている。その一部をご紹介。
国指定重要文化財
徳川家光の命により、正保2年(1645)に
建てられたもので、慈眼大師天海が祀ら
れている。
県指定有形文化財
寛永16年(1639)に建立されたが、
老朽化が進み、大幅に改造されている。

昭和48年(1973)に現在地へ移された。
山門:国指定重要文化財
寛永9年(1632)の建立。大火を免れた。
番所:県指定有形文化財

江戸中期から末期の建立と考えられる。
国指定重要文化財
喜多院の鎮守として創建。現本殿の建立
時期は定かではないが、 一節には室町
時代末期とも考えられている。
その他に仙波東照宮や、鐘楼門、客殿の家光誕生の間、書院の春日局化粧の間などの重要文化財や、五百羅漢など見所多い寺院である。

街道に戻って4〜5分、木製のガラス戸と天皇皇后様献上銘菓と記された看板の商店は明治19年(1886)創業の老舗芋菓子店「芋十」(左)。お勧めは生姜風味の芋煎餅。

芋十から数分先のレンガ造りは大正10年(1921)に建てられ国登録有形文化財の「川越キリスト教会礼拝堂」(右)。蔵の町川越にちょっと異質だがレンガ造りは横浜に限らずどこでも似合う。

さらに5〜6分歩いた先、交差点際の看板建築も国登録有形文化財。昭和5年(1930)に建てられた3階建ては湯宮釣具店であったが今は『手打ち蕎麦・百丈』(左)の店舗。

交差点向こうの市役所前庭にすっくと立っている武将は「太田道灌」(右)。鷹狩の装束であるが右手に山吹の小枝が。歩道際の石碑は「川越城大手門跡碑」(右)。

川越街道は大手門前で終わり その先は城内。 さらに真っ直ぐ進むと児玉街道に入り群馬・藤岡を通って中山道に合流する。

大手門跡碑の前から東方向に10分ほど歩くと川越城の本丸御殿だが その途中で見られるのが「中の門堀跡」(左)。

「川越城図」(右)を見ると本丸の回りは二重三重の水掘。 松平信綱が川越城を整備した時代は天下が治まって間もない時代、まだ戦への備えが必用だったようだ。

明治時代以降、堀は次々に埋め立てられたが唯一残ったのが中ノ門堀であった。

「川越城本丸御殿」(左)に到着して川越街道の旅は終わりとなった。

本丸御殿は嘉永元年(1848)、時の藩主松平斉典が川越藩17万石の威信にかけて造営したもので一千坪余の広さがあったという。

明治維新の廃城令によってほとんどの建物が解体されたが玄関とそれに続く大広間だけは郡役所に使用されるなどで解体を免れた貴重な遺構。玄関脇の「櫛型塀」(右)がなんとも趣きある。

せっかくここまで来たので真っ直ぐ帰るのはもったいない。最寄駅までの道すがら小江戸川越を散策して帰ろうではないか。


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