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水戸街道道中記


(15)府中宿ふちゅうじゅく      街道地図
  常陸国の国府が置かれた場所であったことから「府中」と呼ばれていたが、
慶長7年
(1602)、六郷政乗が1万石を与えられ府中藩を立藩。 江戸時代を
通じて府中藩と名乗っていたが、明治2年
(1869)の藩籍奉還で石岡藩に改称。
明治4年
(1871)の廃藩置県で石岡県となり、現在の石岡市に至っている。

 町並みは昭和4年
(1929)の大火でほとんど焼失したが、その後に建てられた
家並みが多く残っており、これはこれで味わい深い町並みを見ることが出来る。

平成23年6月3日

稲吉宿を出た後、あちらこちら寄り道しながら1時間半、到着した所は恋瀬川の袂。

 国道6号に合流する手前の小さな橋は「旧恋瀬橋」(左)。昭和6年(1931)に完成した橋であったが、平成13年(2001)に役目を終了。親柱と欄干の一部をこの場所に保存・展示してある。

 新しく出来た恋瀬橋を渡るとまもなく府中宿であるが、橋の上から北西方向を眺めると「筑波山」(右)の端整が姿が見える。

 男体山と女体山が並んで見えるが、女体山の方が僅かに高い。さすが かかあ天下の地 山まで・・・・  おっとー、 ここは上州ではなく常州の常陸(ひたち)国であった。

恋瀬橋を渡ったら国道6号を4〜5分歩き、その先で国道と別れ坂道を上っていく。坂の途中からさらに左に入る道が旧水戸街道。

 左に入ってすぐの所に「日天宮(にってんぐう)(左)なる神社がある。

 解説板によると、「太陽・月・星は人々の信仰の対象になっていたが、石岡にはそれらをまつる神社として日天宮・月天宮・星之宮が創建された。後にこの三社は府中三光宮と呼ばれるようになった」とある。

 ならば月と星も見なければ、と向った先は「月天宮(がってんぐう)(右)。国道6号の向こう側にあり、地元の人は「がってん様」と呼んでいる。

 三光宮のもう一つ「星之宮」は国分寺の北側にあったということだが、今は無い。何か痕跡はないかと探したら、地名として残っており、道路際の花壇の中や電柱に「星の宮」がありました。

 ところが、「星之宮」(右)が思わぬ所に存在していたのです。

 経緯は分からないが常陸総社宮に合祀されていました。随神門を入った右側の覆屋内に収められており、格子越しに見ることができる。これで三光宮揃い踏み。

 月天宮へ行く途中に江戸時代から続く「造り酒屋・府中誉」(左)の酒蔵がある。安政元年(1854)の創業というからざっと150年の歴史を持つ酒蔵だが、東日本大震災の被害を受けた建物が痛々しい。

 筑波山の湧き水で仕込んだという本醸造・府中誉は和釜・甑(こしき)・麹蓋・酒槽(さかぶね)という昔ながらの用具を使い、手間暇かけて醸造した酒なのだとか。

 すぐ近くで、久しぶりに猫を撮影しました。ちょっと警戒していますが、カメラに興味があるようで。

 府中誉の隣に見えるお堂は「富田北向観音堂」(左)。かつては常陸総社宮の地内にあった神宮寺の観音堂だったが、元禄年間に神宮寺ともどもこの地に移されたのだとか。

 観音堂の先を右に入った奥は常陸大掾氏の菩提寺である平福寺。 墓地入口にある五輪塔群は「常陸大掾(だいじょう)氏墓所」(右)。

 常陸大掾氏は平安中頃から戦国時代にかけて常陸国で勢力を誇った豪族であったが、戦国時代の天正18年(1590)、佐竹氏の侵攻を受け滅んでいる。

街道に戻ったら、またまた寄り道を。  向った先は常陸総社宮。

 街道を外れて10分ほど歩き、鳥居をくぐった先の参道を左に曲がると萱葺き屋根の「常陸総社宮随神門」(左)が見える。

 古代、国司は赴任国内全ての神社に参拝する慣わしがあったが、いかにも大変。ということで国府の近くに総社が作られここに参拝すると全部の神社に参拝したことになるという。

 常陸総社宮は天平年間(729〜749)、聖武天皇の勅命により6神を合祀勧請したのが始まりと伝えられている。現在の「本殿」(右)は天和3年(1683)に再建されたもので、石岡市指定有形文化財となっている。

街道に戻る途中の清涼寺に府中藩の家老や郡奉行などの墓があるが、漫画家・手塚治虫の先祖である手塚良運の墓もある。

 街道に戻ると石の鳥居が目に入るが、ここは「金刀比羅神社」(左)。古代神木祭祀の時代からの由緒ある神社だが、文政10年(1827)、讃岐の金毘羅大権現の分霊を勧請し、こんぴら神社となっている


 神社の隣は昭和四年(1929)の大火で焼失を免れた「丁子(ちょうし)屋」。江戸末期に建てられた商家建築であるが、東日本大震災には耐えられなかったようで、屋根瓦が崩れているのが痛々しい。

 丁子屋以外に街道時代の建物が残っていない府中宿であるが、かわりに、昭和四年の大火後に建てられた
国登録有形文化財となっている商家建築が多く残っているので一挙に紹介する。

 火災後の昭和5年から6年にかけて
建てられた登録有形文化財の建物が
3軒並んでいる。
十七屋履物店(一番奥の建物)
 昭和5年に建てられた木造2階建ての
看板建築。この地区における看板建築
の先駆けとなった。
久松商店(真ん中の建物)
 昭和5年頃建てられた木造2階建ての
看板建築。正面外壁には銅板が張られ
ている。
福島屋砂糖店(一番手前の建物)
 昭和6年に建てられた木造2階建ての
商家建築。大火後に伝統的商家建築の
意匠で建て替えられている。

すがや化粧品店
 昭和5年頃建てられた木造2階建ての
看板建築。古代ギリシャ建築の様式が
取り入れられている。
栗山呉服店(路地を入った奥)
 昭和7年頃に建てられた木造2階建て
商家建築。2階正面のガラス戸に洒落た
組子が使われている。
きそば東京庵
 昭和7年頃建てられた木造2階建て
和風食堂建築。数奇屋風の意匠はこ
の地域では珍しい。
森戸文四郎商店
 昭和5年頃に建てられた木造2階建て
看板建築。2階部分がアールデコ調の
外観となっている。
 この他にも登録文化財にはなってないが、金刀比羅神社前の中藤米店や、
栗山呉服店
の先にある菅屋など、大火後に建てられた味わい深い建物が
街道沿いや裏道に沢山見られる。

大和田家貸店舗(喫茶四季)
 昭和5年頃建てられた木造2階建ての
看板建築。コリント様式風の柱飾りや
屋根の突起物など、特異な造形である。
平松理容店
 昭和3年に建てられた木造2階建ての
看板建築。昭和四年の大火で焼失を
まぬかれた建物である。

ここから平成23年6月20日

 「パンとケーキの店ヴィオレ」の付近が「府中宿本陣跡」(左)だが、今は表示もなく痕跡も全く見られない。矢口平右衛門家が務めた本陣は水戸藩専用であった。

 本陣跡の対面の土橋通りに入って少々寄り道を。

 数分歩いた右奥の照光寺「府中藩主松平家墓所」(右)がある。府中松平家は水戸家と同じ定府で、江戸小石川に上屋敷があり、墓地も小石川宗慶寺であったが、大正15年(1926)照光寺に移している。 

 土橋通りをさらに進むと、突き当たりに「石岡の陣屋門跡」(左)と刻まれた石碑が建てられている。

 石碑後ろの市民会館から石岡小学校にかけては、この地の豪族・大掾氏が築いた府中城があった場所だが天正18年(1590)に落城。 この地に松平頼隆が陣屋を構えたのが元禄13年(1700)である。

 その「陣屋門」(右)が石岡小学校の校庭に移築されている。この門は文政11年(1828)、九代藩主松平頼縄のとき建てられたもので、小石川の藩邸新築の際に余った材木で建てたのだとか。

 陣屋門のちょっと先に 「常陸国府跡碑」(左) が建てられているが、 ここ(石岡小学校の敷地)は八世紀初頭前後に成立した 常陸国の国衙(こくが 国司の役所)が置かれた場所。

 国府跡碑の近くに「万葉歌碑」(右)がありました。
 
 庭に立つ 麻手刈り干し布さらす
                東女を忘れたまうな  巻4-521

 ちょっと複雑になってしまった石岡小学校の敷地だが、整理すると、八世紀初頭に常陸国の国衙(こくが)が置かれ、正平年間(1346〜69)
大掾詮国(あきくに)によって府中城が築かれ、さらに元禄13年(1700)に松平頼隆が陣屋を置いたという、極めて稀な変遷を経た場所である。

街道に戻ったらまたまた寄り道を。国分町府中三丁目交差点を右へ曲がる道が旧水戸街道であるが、左へ曲がり国分寺跡へ。

 突き当たりに「常陸国分寺跡碑」(左)が建てられている。国分寺跡というと、広々とした空き地を想像するが、ここは真言宗の国分寺本堂や薬師堂、墓地などがあるため想像とは違った国分寺跡であった。

 薬師堂へ行く参道途中の太子堂前に「芭蕉句碑」(右)がありました。

 以左行ん 雪見爾古呂婦 所ま天   
 いざいかん     雪見にころぶ       ところまで   

 現国分寺の参道途中にある萱葺きの山門は、天正元年(1573)頃に建てられたと考えられる「旧千手院山門」(左)。千手院は大正8年(1919)に現国分寺と合併し廃寺となっている。

 現国分寺本堂横の六角堂は、江戸末期に一世風靡した寄席芸人の都々一坊扇歌を偲び、昭和8年に建立された「扇歌堂」(右)。

 庶民に大変な人気の 都々一坊扇歌(どどいっぽうせんか) であったが、「上は金 下に杭なし吾妻橋」 と歌って幕府の怒りを買い、江戸追放。姉の嫁ぎ先である石岡で生涯を終わっている。

国分寺跡まで来たのだから国分尼寺跡も見てみよう、と向った先は府中小学校の裏。

 「国分尼寺跡」(左)は広々としており、「常陸国分尼寺跡碑」(右)と説明板のみが設置されている。

 国分寺、国分尼寺は国情不安を鎮撫するため聖武天皇が天平13年(741)に各国に建立を命じた寺院で、正式名称は国分寺が 「金光明四天王護国之寺」、 国分尼寺が 「法華滅罪之寺」 である。

 国分尼寺は国分寺より早く衰退したことから遺跡として残るところが少ないが、手付かずで残った常陸国分尼寺跡は貴重な存在。発掘調査で建造物の位置や規模が明らかにされている。

寄り道が多かったが、そろそろ街道に戻って旅を続けようではないか。
国分町府中三丁目交差点まで戻ったら東へ向って進み、常磐線の上を越えていく道が旧水戸街道である。

 府中三丁目交差点から10分ほど歩くと街道の両側に塚が見えるが、ここは「石岡一里塚」(左・右)。

 両側の塚が当時のまま残っているという貴重な一里塚で、左側の塚上には当時植えられた榎が大木となっている。

  残念なのは右側の一里塚。 塚上には推定樹齢400年というから、塚が出来たときに植えられたと思われる榎が平成14年の台風で倒木。現在の小さな榎は塚の裾に育っていた苗木を移植したそうだ。

「古都1300年の歴史と郷に出会える街 石岡」 というだけあって天平時代から平成の世までたっぷり堪能した府中宿であった。


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