水戸街道道中記 水戸街道の表紙に戻る
(17)片倉宿かたくらじゅく                     街道地図へ
 片倉宿は本陣が無く、脇本陣1軒、旅籠10軒ほどの少規模の宿場であった。脇本陣跡や問屋場跡を示す
表示が無いため往時の面影を想像しにくいが立派な門と塀を構えた屋敷が並ぶ一角
(左写真)は江戸時代に
戻ったような。
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 平成23年8月1日

 竹原宿を出てかれこれ1時間、「国道6号沿いの桜並木」(左)が終わったところが「堅倉三叉路」(右)。左の道に入っていくと片倉宿である。

 もともと堅倉という地名であったこの地が どういう経緯で片倉宿となったか不明だが「圓朝地名図譜」に次ぎのような下りがある。

 「その次は片倉と申す宿で遊女屋の五六軒もあるかなりの宿でございますから・・・・・」

 

 左へ曲がって数分歩くと道路を跨いで「注連縄(しめなわ)(左)が。良い日に来たものだと喜んだが近くの人に聞くと祭りは今週の末(8月第一週の土日)だという、残念。

 700年前から続く五穀豊穣を願う祭りで旧水戸街道からちょっと外れた貴布禰神社に合祀されている金刀比羅神社の祭礼である。
 
 旧水戸街道はこの先で「思い切り右へ曲がって」(右)旧宿場街へと入っていく。

 ほどなく「加藤家復旧門」(左)が見られる。説明碑によると「元治元年(1864)、天狗党の焼き討ちで母屋と門を焼失してしまったが わずかに焼け残った前柱2本を使用して復旧させた」のだとか。

 加藤家の隣が本田殿の屋敷で冒頭の写真にあるような立派な屋敷塀と屋敷門が続いている。

 道路を挟んだ反対側にも立派な「屋敷塀」(右)と屋敷門があり、この一角はさながら江戸時代の屋敷町、そんな風情である。

 この一角に脇本陣があったということだが表示や痕跡が見当たらないため定かではない。

 まもなく県道59号と交差する十字路に差し掛かるが その左側の建物は「旧旅籠かと屋」(左)。この建物がいつの時代のものか分からないが旅籠角屋(現かと屋)の創業は江戸末期頃だという。

 旧水戸街道はかと屋にそって左へ曲がっていくのだが真っ直ぐ進み国道6号先の「貴布禰神社/金刀比羅神社(右)へ寄り道を。

 京都の貴船神社から分霊を勧請して創建した神社だが、鎌倉時代中頃、金毘羅宮から分霊を奥州に奉遷する際、当社で旅の疲れを癒したのだとか。その際、貴布禰神社に分神体を合祀したと伝えられている。

 街道に戻って かと屋の横を通り巴橋を渡って十字路を右に曲がると「石船(いわふね)神社」(左)に行かれる。

 由緒書きが無いので神社の歴史は分からないが境内に樹齢500年という御神木の大欅(けやき)がそびえている。樹高20メートル、根回りが18メートルというから凄い。

 街道に戻ると その先はひなびた旧街道がどこまでも続いている。水戸街道では石仏をよく見かけるが国道6号を横断した5〜6分先にも「石仏が5体」(右)、その先にも二十三夜塔がある。

 目を引いたのが「なまこ壁の土蔵」(左)。旧水戸街道では初めて見るが亀甲模様というのが珍しい。この先でも亀甲模様を含めて数棟のなまこ壁の土蔵が見られる。

 暫く歩いた先の杉林の奥に見える真っ赤な建物は「石船神社」(右)だが何故に赤い。

 鳥居脇のもう一本の石柱に「稲荷大明神」と刻まれている。なるほど、お稲荷さんか。中を覗くと なんと、 神主が狐に跨って闊歩している絵があるではないか。

 石船神社を出た後は路傍の石仏を見たり なまこ壁の土蔵を眺めたりしながらかれこれ20分、山中橋を渡ったらちょっと寄り道を。

 田んぼの向こうに またまた真っ赤(朱色)な御堂が見えるが、ここは「山中薬師本堂」(左)。建築年代は不明だが旧美野里町指定の文化財である。眼病に霊験あらたかだそうだ。

 真っ赤な理由は中を覗くと分かる。今度は、なんと真っ赤な阿吽の「仁王像」(右)が睨みを利かしているのである。 写真は阿像。

 江戸時代末期の作で旧美野里町唯一の仁王像だそうだが躍動感が弱く仏の顔というよりは人間顔であるところがちょっと残念。 

 街道に戻るとその先は小美玉市から茨城町に代わり緩い上り坂となる。

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