水戸街道道中記 水戸街道の表紙に戻る

(1)千住宿せんじゅじゅく                         街道地図
 千住宿は江戸四宿(千住宿、品川宿、新宿、板橋宿)の一つ。日本橋を出発して隅田川を渡るとやっちゃ場の
喧騒に始まり、荒川までの間のかなり広い範囲が宿場町として賑わっていた。 水戸街道は荒川に近い
千住四丁目から分かれて水戸に向っている。 この道中記では千住宿の本陣跡碑前から出発するので、
千住宿の詳細は「日光街道千住宿」を参照してください。
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 平成23年2月4日

 千住のやっちゃ場(生鮮卸売り市場)跡を通り過ぎてかれこれ10分。 賑やかな商店街の中ほどに「宿場町通り」(左)と看板が掲げられているがここは江戸時代も宿場の中心であった。

 看板のすぐ先、道路際に「千住宿本陣跡」(右)と刻まれた石碑が建てられている。その規模は敷地361坪、建坪120坪であったそうなのでそれほど大きな本陣ではなかった。

 天保15年(1844)の「日光道中宿村大概帳」によると千住宿は本陣一、脇本陣一、旅籠五十五軒であったそうだ。


 本陣跡碑の数分先に「千住 街の駅」(左)なるお休み処が平成22年秋に開設されている。大正時代に建てられたという元鮮魚店の空き店舗を利用した施設。ちょっとした休憩にはもってこい。

 さらに数分歩いた先の 本町公園は「高札場跡」(右)で由来を記した解説板が設置されている。

 由来記によると千住宿は五街道制定以前の慶長2年(1597)に人馬引継ぎ駅が開設されて宿場として栄えるようにり、以来、宿場の入口と出口に高札場が設置されるようになったのだとか。

 もう少し歩くと昔懐かしい木製ガラス戸がはめ込まれたお店があるがここは江戸時代中頃から絵馬や地口行灯、凧などの絵柄を描いてきた「際物問屋の吉田屋」(左)。

  吉田屋の対面にある古民家は江戸時代後期に建てられたという「横山家住宅」(右)。 横山家は松屋という屋号で戦前まで手広く地漉紙問屋を営んでいたのだそうだ。

 千住宿の宿場通りはこの辺りから人通りも少なくなり静かな街道に変わっていく。

 ほどなく十字路の右側に「東へ旧水戸佐倉道」(左)と刻まれた道標が建てられている。水戸街道はこの十字路を右に曲がっていくのだが真っ直ぐ進む道は旧日光道中。

 ここに建てられている道標は比較的新しいもので「江戸時代の道標」(右)は「足立区郷土博物館」の庭に移設・展示されている。

 写真では分かりにくいが、この道標には「水戸海道」(右)と刻まれている。つまり元禄時代以前に造られた道標であるが破損の恐れありとのことで博物館に移設されてしまった。

 いよいよ「旧水戸街道」(左下)の旅の始まり。車が通る時は脇に除けなければならないような細い道を進みJR常磐線のガード下を抜けて最初に立ち寄った場所が
元和五年(1619)創建という清亮寺。 今は無き「槍(やり)掛けの松」(右下)で有名な寺院だ。

 参勤交代の大名行列はいかなる理由があっても槍を横に倒す事は許されなかったそうだが街道を横切るように張り出した松には困った。切ってしまえ。となったがここを通りかかった水戸光圀公「切るのは惜しい。ではここで槍をこの松に立て掛けて休憩じゃ。出発するときは向こう側から槍を取ればよい」と言ったとか。

 以来、この松は「槍掛けの松」(右)と称され大名の休憩場所になったそうだが昭和20年(1945)ごろ枯れてしまったのが至極残念。

 ほどなく街道は「荒川」(左)の堤防に突き当たり行く手を遮られるが、この川は明治44年(1911)から20年の歳月を掛けて完成した荒川放水路。昭和40年(1965)に正式名称を「荒川」としている。

 江戸時代には無かった川であるので当時の旅人は川に遮られることなく次ぎの宿場へ行かれたのであった。

 今は1kmほど下流の「堀切橋」(右)を渡っていかなければならないが景色が良いので荒川堤の上をノンビリ歩くのも悪くない。

 堀切橋を渡ったら今度は左岸の堤防を上流に向って約1km、こちらは舗装された道なので少々味わいに欠けるが景色は悪くない。

 小菅水再生センターの先から堤防を右側に下って高速道路の下を通ると「旧水戸街道」(右)に復帰出来る。この先も細い道を車をよけながらてくてくと。

 次に目指すは新宿(にいじゅく)である。

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