水戸街道道中記 水戸街道の表紙に戻る
 (2)新 宿にいじゅく                          街道地図
 新宿は戦国時代の後北条氏によって葛西城の町場として整備された宿で、常陸及び下総への
分岐点であったことから交通の要衝として賑わっていた。しかし、千住宿と松戸宿の繋ぎの宿と
位置付けられたため、本陣、脇本陣はなく旅籠も4〜5軒と小さな宿場で終わっている。街道は
見事な枡形で旧街道の雰囲気があるが古民家などは見られない。
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 平成23年2月4日   これはビックリ、石で出来た梵鐘です。

 荒川の堤防を降りて旧街道を5〜6分歩くと高速道路の下に太鼓橋のような古びた橋が見えるが、この橋の名を「水戸橋」(左)という。
 コメント:水戸橋は平成24年(2012)に上流の新水戸橋に架け替えられて現在はありません。

 何故この橋が「水戸」なのか。いくつか云われがあるが、その一つが面白い。

 この橋の袂に夜な夜な妖怪が出没したそうだ。これを知った水戸黄門が妖怪を退治し「再び悪事を働かぬよう、この橋を我が名をとって水戸橋と命名し後の世まで調伏する」と自ら筆をとったのだとか。時は元禄8年(1695)のことである。
 さすが黄門様。だが300年も前の話なのでなんとも。

 水戸橋から数分歩くと「古(ふる)隅田川」(左)の流れを見ることができる。かつて、利根川が隅田川を経由して東京湾に流れ込んでいた頃の旧流路が残ったもので親水公園として整備されている。

 ちなみに大化元年(645)の頃、この川を境にして現在の足立区側を武蔵国足立郡、葛飾区側を下総国葛飾郡と定めたがこの境界は今も引き継がれている。

 さらに数分歩いた先の蓮昌寺に思わぬ物が。山門を入った右側の塀際に置かれていた物は「石の梵鐘」(右)。云われは不明です。

 街道は都道314号を横断した先から左に入り、常磐線の高架下で大きく右に曲がっていくが、この辺りを「大曲り」(左)と呼んでいたそうだ。街道はその先で左にカーブしながら都道467号に合流。

 都道に合流してしばらく歩くと「曳舟古上水橋」(右)と刻まれた石碑が街道際に建てられている。

 かつて亀有上水が流れ、後に水路として引舟が運行されるようになった曳舟川。昭和60年代(1985〜)まで橋が架かっていたのだが今は暗渠となって流れは見られない。

 上水橋碑の数分先に「一里塚跡碑」(左)が建てられているのだが隣に黄門様と助さん格さんが。顔だけというのがなんとも無気味。

 ちょっと寄り道を。 JR亀有駅からバスで足立郷土博物館に向ったのだが目的は水戸街道の入口にあった「水戸海道道標」を見るために。コメント:水戸海道道標の写真は千住宿のページに載せてあります。

 ところが前庭に「芭蕉句碑」(右)という思わぬ物が。これは千住宿の本氷川神社にあった句碑が移設されたもの。
    春も漸(やや) けしきととのふ 月と梅  はせを

 館内に入るとまたまた思わぬ物が。「おもしろ絵詞 地口行灯」と題した特別展が開催されており「地口行灯」(左)と「絵詞」(右)が展示されていたのであった。

 その中に千住宿の際物問屋吉田屋八代目(吉田晁子)が描いた「絵詞」も何枚かあったのでその一部を紹介。

 あとの号外先に立たず  あとの後悔先に立たず  (左)
 一合にけんちん      越後に謙信        (右)
 コメント:地口は、駄洒落の一種である言葉遊び

 街道に戻って先へ進むと、 おっとー そこにいるのは「こち亀の両さん」(左)ではないか。JR亀有駅北口にはもっと大きな両さんが手を上げてガハハハーっと笑っていたっけ。

 街道はこの先の環状7号を横断し「中川」(右)を渡って100mほど先を右に曲がると新宿(にいじゅく)へと入っていく。 新宿を通過する水戸街道は地図上でみると見事なコの字の枡形を形成している。

 右に曲がって数分、西念寺の本堂左手の祠に「鯖大師」(左)が鎮座している。 ついぞ聞いた事が無い大師様であるが弘法大師のことなんですね。鯖を3年間断って祈願すると願い事が叶うのだとか。

 四国別格霊場第四番札所の八坂寺が鯖大師本坊と呼ばれているが、その鯖大師が何故ここに。

 次の枡形を曲がらず真っ直ぐ進むと「日枝神社」(右)に突き当たる。本殿は真新しいが創建は永禄2年(1559)とのこと。ここの手水は龍の口からではなく、なんと猿が持つ瓢箪から流れ出ている。

 枡形を左に曲がり次の枡形まで歩くと「金阿弥橋」(左下)と記された橋の親柱と欄干があるが今は暗渠となって川は無い。

 ところで、この辺りに「水戸街道石橋供養道標」があったはずだが探しても見つからない。見つからないはずだ。「葛飾区郷土と天文博物館」に移されてしまったのだった。

 道標(みちしるべ)は道に在ってこそ存在価値があるもの。博物館に持っていってしまい、しかも倉庫に入れっぱなしとは、けしからん。

 道標があった頃の説明板によると「水路に沿った道を左に・・・」とある。ということは金阿弥橋を渡ってすぐに左へ曲がっていくことになる。ほどなく都道に合流、彼方に「一本松」(右)がそびえている。

 都道に合流した先を右へ曲がり一本松の下までくると「石仏群」(左)に遭遇。説明碑によると「旧水戸街道拡幅に伴い現在地に移転」とある。ちゃんと街道沿いに残してくれたとは嬉しいじゃないですか。

 石仏群の前を通って数分、「浜街道踏切」(右)なる表示が。水戸街道は明治初期に「陸前浜街道」と名称変更しているが、その名称を今も使い続けているとは律儀だね〜。

 この線路はJR総武線と常磐線を繋ぐ貨物線で一日数本の貨物列車が通過するそうだ。

 ここから平成23年2月19日
  浜街道踏切りを渡り10分ほど歩くと国道6号の現水戸街道に合流。さらに10分ほど歩いて旧道に入っていくのだが常磐線のガード下を通ったら金蓮院に寄り道を。

 境内左手に樹齢400年とも450年とも云われる「ラカンマキ(羅漢槙)(左)がそびえている。長の風雪に耐えた荒々しさを見せるこの槙は文政12年(1829)の「十方庵遊歴雑記」にも登場するという。

 街道に戻り歩道橋を渡って右側の細い道を5〜6分、葛西ばやし発祥の地と云われる「葛西神社」(右)が街道際に鎮座している。 元暦元年(1184)に下総香取神宮の分霊を勧請し創立したのだとか。

 葛西神社から数分先の光増寺に元禄7年(1694)に建てられた「舟形地蔵道標」(左)が移設されている。 坂東三十三観音霊場の岩槻慈恩寺への道標(みちしるべ)で、「ミキいわつきしおんミチ」と刻まれいる。

 この先の旧水戸街道は江戸川の改修工事で消滅状態。ならば景色のよい江戸川の堤防を歩こうではないか。

 はるか彼方に、これから渡る葛飾橋が見える。

 堤防上のサイクリングロードをかれこれ20分ほど歩き(葛飾橋の前を通り過ぎていく)、堤防から左下の金町ポンプ場前に下りると「金町関所跡碑」(左)が見られる。

 金町松戸関所と称せられたこの施設は明治2年(1869)に廃止となったが、それまでは4人の関所番がその任にあたっていたそうだ。

 「葛飾橋」(右)まで戻って江戸川を渡ると松戸宿。いよいよ千葉である。ところで、この橋が怖いんだ。左に寄って下を見る吸い込まれそう。

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