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(5)我孫子宿あびこじゅく 街道地図 |
東西1km弱に渡る宿場町であったが、道路の拡幅工事が行われたため往時の面影はく無くなってしまった。
それでも旧脇本陣の萱葺き建物や江戸時代の道標を見ることができる。一方、大正時代の一時期、白樺派の
文士が手賀沼を見下ろす高台に居を構え執筆活動を行っていたが、これらを巡る文学散歩も街道歩きの寄り道
として面白い。
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 呼塚橋を渡り国道下を通ってすぐに右折するとまもなく急な上り坂となるが、ここは水戸街道の中の難所と言われた「根戸の大坂」(左)。今は舗装された道を難なく上れるが土道のころは難所だったろう。

ほどなく到着したお寺は「東陽寺」(右)。 江戸時代には寺子屋を、明治に入ると早くも根戸学校を開校したという学問の寺である。
本堂前に庭掃除をする「小坊主が」(右)。いやいや、持っているのは箒ではなく筆ですかね。しかし筆にしては大き過ぎるのでやはり箒でしょう。 |
 東陽寺を出て数分、それはそれは見事に咲いた「しだれ桃」(左)。開いていた門から思わず1枚。もしかしたら「見てください」と門を開けておいてくれたのかもしれない。
街道はこの先でくの字に右へ曲がり国道6号を横断。さらに十数分歩くとJR常磐線に突き当たる。
旧水戸街道は常磐線を斜めに横切っていたのだが、今は「横断歩道橋」(右)で向こう側へ渡ることに。 |
 歩道橋を渡って7〜8分、広い交差点角の神社は応永3年(1396)創建と伝えられる「八坂神社」(左)。我孫子宿はこの辺りから。
拡幅工事が行われた街道に昔の面影は見られない。ほどなく曲折した道の角の所に「角松本店」(右)の看板が見える。
今は割烹旅館だが江戸時代には「松島楼」と呼ばれた旅籠。 明治17年、女化け原の近衛兵大演習統監のため訪れた明治天皇の行在所(あんざいしょ)にもなった老舗だ。建物は江戸時代のものではない。 |
 角松本店の前を左に曲がった先の右側に「従是子神道」(左)と刻まれた道標が1本。寛政元年(1789)建立の道標は1.5kmほど東の「子の神大黒天」への入口である。
道標の少し先に「我孫子宿本陣跡標柱」(右)が建てられているが今はマンションに変わっており遺構は全く見られない。と思ったら、なんと本陣の一部が残っていた。 |
 ちょいと遠いが 子の神大黒天 近くの旧村川別荘に「旧本陣の離れ家」(左)が移築されていたのである。
大正10年(1921)、東京帝大教授であった村川堅固が旧本陣の離れ家を購入し移築、別荘の母屋としていたのであった。 当初は萱葺きだったそうだ。
本陣跡の斜め向こう側に見える萱葺きの大きな建物は小熊家が務めた「旧脇本陣」(右)。 江戸時代末期に建てられた建物は今も現役で使われているため内部の見学はできない。 |
 往時の面影少ない我孫子宿であるが旧脇本陣の少し先、三叉路の向こうに昔を偲ばせる風景がちょっとだけ見える。「割烹旅館・鈴木屋」(左)は明治12年の創業。
三叉路を右に曲がって5〜6分、次の三叉路は「成田街道分岐」(右)。旧水戸街道はここを左に曲がっていく。
ここで少々寄り道を。左に曲がらず真っ直ぐ30mほど歩き右の細い道から小学校前を通って大正時代のはけの道へと下っていく。
はけの道:崖下の水辺に面した道。ここでは手賀沼ふれあいラインの一本山側の道。 |
我孫子は北の鎌倉とも呼ばれ、柳宗悦や志賀直哉、武者小路実篤など白樺派の文士が移り住み執筆活動を行っていた。それらの跡をちょっとだけ散歩してみようと思う。
ちょっと分かり難いが道なりに下っていくと白樺派文学館や柳宗悦邸跡の表示が現れる。 |
 はけの道を右に曲がり数分歩くと、「天神坂」(左)と呼ばれる石段が山に向っている。この坂を上った左側が三樹荘と呼ばれた柳宗悦居宅跡で説明板が設置されている。
また石段入口の右側は嘉納治五郎の別荘跡。ともに当時の建物は残されていない。
はけの道に戻り東へ3〜4分歩くと白樺文学館があり、その斜め前が志賀直哉邸跡。一角に「書斎」(右)が復元されている。茶室風に作られた室内には遺品が展示されているそうだ。 |
 天神坂から白樺文学館に来る途中、「大正煎餅」(左)と書かれた看板のあるレトロな店が。店内には昔懐かしいガラス瓶に煎餅が入れられ並べられている。
何種類か買い求めたが「みそせんべい」が事の他旨い。
白樺文学館の前を通り過ぎてしばらく歩き階段を上ると街道沿いに道標があった「子の神大黒天」(右)にたどり着く。この神社は足腰にご利益があるようで絵馬ならぬかねのわらじが多数奉納されている。 |
 子の神大黒天隣の「旧村川別荘」(左)は嘉納治五郎と親交があった村川堅固が旧本陣の離れ家を移築し別荘としていた。昭和2年(1927)、堅固は新館を建築。 現在は我孫子市が管理。
はけの道周辺にはバーナード・リーチ碑や旧杉村楚人冠邸などもあり、ちょっと離れた我孫子市船戸には旧武者小路実篤邸も。
寄り道前の成田街道分岐まで戻ると交差点の中に「石塔」(右)が多数転がっている。水戸街道はここを左に曲がっていくのだが間違えて真っ直ぐ進んでしまう旅人も多かったとか。 |
 分岐を左へ曲がりJR成田線の浜街道踏切りを渡って7〜8分、旧水戸街道は「JR常磐線で分断」(左)され消滅状態。ここは坂を下り地下道を通って遠回りしながら水道局前に出ると旧街道に復帰できる。
水道局前から10分ほど歩くと大きな注連縄の張られた鳥居があるが、ここは天慶元年(938)創建という「柴崎神社」(左)。日本武尊が立ち寄ったとも平将門の祈願所であったとも伝えられている。
久しぶりに見た神明造りは、やはり神社らしい。 |
 柴崎神社隣の円福寺に「鯖大師」(左)が。 新宿(にいじゅく)の西念寺にも鯖大師が祀られていたが、こちらの大師はしっかりと鯖を持っており、まさに鯖大師。
円福寺脇からさらに奥に入った東源寺に鎮座している地蔵様は六地蔵ならぬ「七地蔵」(右)。云われなどは記されていないので深い意味は無いのだろうが見た瞬間??何か違う、と思ってしまう地蔵様だ。
本堂の前には樹齢約250年という榧(かや)の大木がそびえている。
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 街道に戻り暫く歩くと国道6号に合流。国道を4〜5分歩いたら青山台入口信号から側道に移り、さらに旧街道に入っていくのだが旧街道は「静かな静かな町並み」(左)だ。
街道の突き当たりは利根川。堤防に上がると広大な河川敷が目に飛び込んでくる。江戸時代はかなり蛇行しており渡しのルートがはっきりしないが取手宿の長禅寺の前辺りに上陸していたようだ。
左手を見ると、長〜い「大利根橋」(右)が見える。地図上で測定すると、なんと1300m。この橋を渡るのかと思うと気が重いな〜。 |
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