中原街道 道中記 表紙に戻る


街道地図

中原街道
桜田門から五反田まで   
 中原街道の起点は虎ノ門であるが、江戸城が拡張される以前は桜田門が起点であった。今回の旅ではその桜田門から出発である。
 日本の中枢、霞が関・虎ノ門の官庁街を抜け、三田から聖坂と呼ばれる旧道の坂道を
上って尾根筋の高台を通り、五反田へ下るというコース。 大都会のど真ん中を歩くのだが
至る所で江戸時代を感じることが出来る街道歩きであった。

桜田門から五反田五反田から丸子の渡し丸子の渡しから中山 中山から桜ケ丘 桜ケ丘から寒川 寒川から中野御殿

平成27年9月16日

 桜田門は「内桜田門(桔梗門)(上)と「外桜田門(高麗門)(左)が枡形構造になっている。万延元年(1860)、大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されたのはこの門外であった。

 桜田門を出たらしばらくは桜田通り(国道1号)を歩くのだが、この辺りは各省庁のビルが街道を囲む霞が関の官庁街。

 中でも目を引くのが「旧法務省本館」(右)。ここは米沢藩上杉家江戸屋敷の跡であったが司法省の建物として明治28年(1895)に完成。平成6年(1994)に修復工事が行われ、法務省図書館として使われている。

 霞が関を抜け、虎ノ門まで来ると文科省前の地下鉄銀座線虎ノ門駅の11番出口途中に外濠の石垣である「虎ノ門石垣」(左)が復元されており、濠の水面位置から石垣が見学できるようになっている。

コメント:文科省旧館の中庭にも石垣が復元されており、見学自由。

 虎ノ門駅にはもう一カ所見どころが。8番出口を出た所「虎のブロンズ像」(右)が鎮座。あまり大きくはないが迫力ある虎だ。ここの町名が今入町から虎ノ門に改称された記念に設置したのだとか。
この写真は11番出口の見学窓から撮影

 虎ノ門交差点からちょっと歩くとビルの谷間に大きな鳥居が
まるで異次元の世界だ。

ここは讃岐丸亀藩主京極高和が万治3年(1660)に江戸藩邸内に勧請し、延宝7年(1679)にこの地に移した「金刀比羅宮」(左)。
 拝殿正面の銅製鳥居は文政4年(1821)に奉納されたもので「金刀比羅大神」の扁額が掲げられている。

 街道に戻り4〜5分、コンビニの前に「乃木邸跡碑」(右)がひっそりと立っている。乃木将軍が静子夫人と新婚時代を過ごした場所だそうな。 

愛宕神社に寄り道を、と交差点を左に入ると「愛宕神社参道」の表示が出ている。が、ここには行かずトンネルを潜ってもう少し先まで。

 着いたところは「愛宕神社 出世の石段」(左)。傾斜角40度86段の石段は途中で振り向くと転げ落ちそう。この急階段を馬で駆け上がったのが讃岐丸亀藩の曲垣平九郎。時は寛永11年(1634)であった。

 愛宕神社は慶長8年(1603)に徳川家康の命により防火の神として祀られたのがはじまり。標高26メートルという高台のため見晴らしがよく、江戸庶民の憩いの場であったという。

 街道に戻る途中の天徳寺に十二角形という「ユニークな鐘楼」(右)がある。梵鐘は寛永12年(1635)の鋳造で23区内最古だそうだ。

 神谷町交差点左の光明寺で見たのは「明和の大火死者供養墓」(左)。明和9年(1772)、目黒行人坂の大円寺より出火した火事は麻布・江戸城郭内・日本橋・神田さらには浅草・千住にまで達したという。

 この火事では死者1万4700人、行方不明者4000人超、類焼した寺は382に及んだというが、光明寺境内の山の上に避難した男女90人も焼死。その供養のために当時の住職が建立したもの。

 その先の「八幡神社」(右)は寛広年間(1004〜1012)創建。関ヶ原の戦いの際、秀忠の正室・お江が戦勝を祈願し、後に社殿を造営している。

 街道に戻ったらその先を右に入ると突き当りに「雁木坂(がんぎざか)(左)が見える。坂というより階段であるが、説明書きによると「階段になった坂を一般に雁木坂という」のだそうだ。

 この辺りから三田・高輪にかけては坂道が多い所。それぞれに坂名が付けられている。

 すぐ先の飯倉交差点を左に入った上り坂は「永井坂」(右)。
江戸時代、この辺りを芝永井町といったので地名がそのまま坂名に。
永井坂を上った先が修学旅行のメッカ東京タワー

 ここまで来たのでちょっと寄り道を。 向かった先は徳川将軍家の菩提寺・増上寺。
 増上寺の開山は室町時代の明徳4年(1393)。徳川家康が関東を治めるようになったとき菩提寺として増上寺が選ばれ、
慶長3年(1598)に現在地へ移転。家康の手厚い保護のもと、関東十八檀林の筆頭として興隆。

 ちょっと遠回りになるが「三解脱門」(左)から入ることに。戦災で多くの建物を焼失した増上寺であったが、元和8年(1622)に再建された山門だけは焼失を免れ、江戸時代初期の面影を残している。

 三解脱門を入って右手に見える「鐘楼」(右)は戦後再建されたものだが、納められている大鐘楼は延宝元年(1673)に鋳造されたもの。

 江戸三大名鐘の一つに数えられ、高さ一丈、重さ四千貫(約3m、15トン)で東日本最大級。  江戸時代の川柳に
   今鳴るは 芝(増上寺)か 上野(寛永寺)か 浅草(浅草寺)  とある。

 鐘楼の反対側にある「水盤舎」(左)も江戸時代のもの。 元は清揚院殿(三代将軍家光の三男甲府宰相綱重)の霊廟にあったものだが、明治時代に解体され戦災を免れたものを移築。


 正面に「増上寺大殿」(右)がデンと構えている。戦災で本堂が焼失し、長い間仮本堂であったが昭和49年(1974)に再建。 間口二十六間(約48m)、奥行き二十五間(約45m)、高さ七丈半(約23m)
堂々たる本堂である。

 大殿の右手、安国殿の前に鎮座しているのは「西向き観音」(左)。
この石製観音様は増上寺開山以前の鎌倉時代、北条時頼が観音山に安置したと伝えられている。昭和50年(1975)に現在地に遷座。

 西向き観音から境内裏手に向かって華やかに連なっているのは千体地蔵。赤い帽子に涎掛け、クルクル回る風車がなんとも言えません。

 境内裏手にひっそりと構えているのは十四代将軍家茂の正室・皇女和宮ゆかりの茶室「貞恭庵」(右)。昭和55年に移築したものだ。遺品である袈裟や琴、手紙などが収蔵されているという。

 千体地蔵群の先に見えたのは「徳川将軍墓所鋳抜門」(左)。元々は6代将軍家宣廟の宝塔前「中門」だったもの。扉は青銅製で5個づつの葵紋が配され、両脇に昇り龍・下り龍が鋳抜かれた荘厳なもの。

 鋳抜門の奥が「徳川将軍墓所」(右)。かつては大殿の左右にあった霊廟だが戦災で焼失したため現在地へ改葬。

 埋葬されているのは2代将軍秀忠夫妻、6代家宜夫妻、7代家継、
9代家重、12代家慶 、14代家茂、皇女和宮、将軍生母・側室等でそれぞれに宝塔が設けられている。

増上寺で少々時間を取られてしまったので急いで街道へ。

 飯倉交差点まで戻ったら土器(かわらけ)坂を下って行く。 ちなみに、坂下に土器職人が多数居住していたので「土器坂」なのだそうだ。

 途中にあった「熊野神社」(左)は、養老年間(680〜740)に芝浦の海辺に勧請したのが始まりという古社。文明年間(1469〜1487)に太田道灌によって再建されたという。

 坂を下って右奥に入った所の飯倉公園は「赤羽接遇所跡」(右)。
安政6年(1859)に設けられた外国人のための宿舎兼応接所である。シーボルト父子やロシアの領事ゴシケビッチなどもここに滞在している。

 その先の古川に架かる赤羽橋を渡ると「赤羽橋親柱」(左)が街道際に。大正15年(1926)に架橋された旧赤羽橋の親柱と思われるが、街燈が乗った石積みの柱は風格がある。

 10分ほど歩いた右階段上の朱鮮やかな神社は「春日神社」(右)。天徳2年(958)、武蔵国国司藤原政房任国の際、奈良春日大社の御神霊を目黒区三田に勧請。天文年間に当地へ遷座。

 江戸府内でただ一カ所の春日神社であったことから徳川将軍の崇敬篤く、諸大名も江戸城登城の途中に参詣したという。 

桜田通りは三田2丁目交差点で右に曲がっていくが、旧中原街道は直進し100mほど先で右へ曲がっていく。

 右へ曲がって数分、さらに右へ上る急坂があるが、この坂は「潮見坂」(左)と呼ばれている。坂の途中から振り向くと、・・・・ビルしか見えないがかつては芝浦の海が一望。潮の干満を知ることができたそうだ。

 潮見坂入口あたりから上り坂となるがこの坂を「聖坂」(右)という。
古代から中世にかけての通行路で、高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったので「聖坂」と呼ばれたのだとか。

 東海道が開かれるまでの、東国と西国を結ぶ主要道路であった。

 聖坂を上り詰める手前にあるのが「亀塚稲荷神社」(左)。
昔、月の岬(現・三田台町付近)の酒壺の下に住みついた霊亀が一夜にして白い石になったという。人々が驚いて祠を造り祀ったのだそうだ。

 元はこの先の亀塚の頂に鎮座しており、そこに物見台を設けた太田道灌が守護神として一社を建立。 明治の初めに現在地へ遷座。

 境内右手に見える石碑は上部に阿弥陀を表す種子(しゅじ=梵字)を刻んだ「種子板碑」(右)。文永3年(1266)、正和2年(1313)、延文6年(1361)の造立で港区では最古の板碑だそうだ。

 坂を上りきった左手の公園内にある「亀塚」(左)は古墳と云われているが、また、平安時代に書かれた「更級日記」には竹芝寺の伝説地とも記述されている。

 この辺一帯は上野国沼田城主土岐家の下屋敷であったが、亀が石になったという伝説に興味をもった土岐頼熙(よりおき)が寛延3年(1750)に亀塚の頂上に亀山碑を建立している。

 公園を出ると右側に「幽霊坂」(右)が下って行く。坂の両側に寺院が並び ものさびしい坂道であったことから いつからか幽霊坂と。

 幽霊坂の途中で右側の路地を入ると實相寺本堂脇に「会津松平家墓所」(左下)がある。会津藩祖保科正之(のち松平姓)が江戸の菩提寺として
定めた寺で歴代藩主の婦人や子女の墓が多い。ちょっと荒れた感じが残念。

 墓石の中で目立つのが「聖光院の墓」(左)。正之の継室お万の方の墓だが、恐ろしい毒殺事件を起こした人物で、正之が家訓に「婦人の言は一切聞くべからず」と付け加えたほどの悪女であった。

 幽霊坂をもう少し下った左側、玉鳳寺山門脇の地蔵堂内に「お化粧地蔵」(右)が鎮座している。次のような伝説が。

 橋の袂に放置されていたお地蔵さんを発見した寺の和尚さんが、壊れた部分を白粉で修復するとたちまち美しいお地蔵さんに。そして和尚さんの顔の痣も治ったという。これを聞いた近所の人達が美しくなりたいと連日参拝に訪れたのだとか。
 

 街道に戻ったら数分先の三叉路を右へ曲がってちょっと寄り道を。

 朝顔に つるべ取られて もらい水  加賀千代女
なんと、その井戸が今も残されているのです。薬王寺本堂の裏手、墓地の一角に「朝顔の井戸」(左)がありました。 

 街道に戻り数分、中原街道から左右に坂道が下ってゆくが左へ下る道を「伊皿子坂(いさらござか)(右)という。中国人・伊皿子(いんべいす)が住んでいたからだとか、大仏(おさらぎ)がなまったとも云われている。

 右へ下る坂を「魚籃坂」(左)という。 坂の途中に魚籃寺があるので
魚籃坂。単純な命名です。

 坂の途中に見えたのは朱鮮やかな「魚籃寺の山門」(右)。
本尊は魚を入れた竹篭(魚籃)をお提げになった美しい乙女姿の魚籃観世音菩薩。残念ながら拝観ができない。

 境内に塩地蔵が鎮座している。その昔、高輪の海から上がった お地蔵様で、塩を供えて願掛けすれば願いが叶うのだそうだ。傍らには袋入りの塩が山積みでした。

街道に戻り数分、鬱蒼とした森に囲まれた一角は高松宮邸跡。喜久子妃殿下が亡くなられた後は住む人も無くひっそりとしている。

 その先の高輪一丁目アート前に「大石良雄等自刀ノ跡」と刻まれた石碑があるのでその脇を入って行くと、「大石良雄 外16人忠烈の跡」(左)がある。ここは赤穂義士御預けの命を受けた旧細川邸跡。

 細川家御預けとなった大石良雄ら17名は元禄16年(1703)2月4日、
細川邸大書院の前庭で切腹したのであった。

 次ぎに向かった先は承教寺。山門前に人間とも牛とも見える不思議な石造?が。調べると「件( くだん )」というのだそうです。「件」という字は「人偏に牛」、つまり半人半牛。江戸時代には目撃者がいたんだって。

 「件」の前の石碑は「二本榎碑」(左)。 説明板によると、江戸時代、この辺りに榎の大木が2本あったことから二本榎という地名であったそうだ。 が、今は高輪何丁目という無粋な地名に。


 承教寺の本堂前に「英一蝶の墓」(右)がある。 江戸中期の絵師で英派の始祖。画いた図が将軍綱吉を風刺したとして三宅島に配流されたが、赦免の報を聞いたとき、蝶が花に戯れる様を見て「一蝶」と号したという。

 承教寺先の交差点際にあるモダンな建物は「高輪消防署二本榎出張所」(左)。二本榎という地名が残されているのが嬉しいが、昭和8年(1993)に建てられたもので東京都の保存建築に指定されている。


 すぐ先は「高野山東京別院」(右)。 慶長年間に高野山の学侶方の在番所として開創。明暦元年(1655)に二本榎の地を下賜され延宝元年(1673)に「江戸在番所高野寺」として建立されたと伝わっている。

 その先の光福寺に「幽霊地蔵」(左)が。  実物を見るまではどんな
お地蔵さんかと想像していたが、まさに幽霊だ。

 旧中原街道のこの先がちょっとはっきりしない。 とりあえず国道1号
桜田通りに合流して緩い坂を下って五反田へ向かう。

 その途中にあった「雉子神社」(右)は文明年間(1649〜87)の創建と云われているが今は大きなビルの中。 三代将軍家光が鷹狩の際、白い雉が神社に入ったので「雉子の宮」とするように命じたと伝わっている。

国道1号の緩い坂を下った先はJR五反田駅。中原街道は駅の高架下を通っていく。

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