中原街道 道中記 表紙に戻る


街道地図

中原街道
五反田から丸子の渡し まで   
 五反田の先から旧中原街道に入りしばらくは旧道の雰囲気を楽しむことが出来る。
洗足坂を下った先の洗足池では都会の喧騒を忘れ池畔を散策。
 その先しばらくはすっかり変わってしまった現・中原街道を歩くのだが、環状八号の
下を通ったら再び旧道に。福山雅治の「桜坂」で知名度が全国区となった桜坂を下ると
その先は多摩川の丸子の渡し。多摩川を渡ると神奈川県である。

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平成27年10月9日

中原街道の旅、第2回目の出発点は「五反田駅」(左下)から。

 江戸時代、目黒川沿いは一面の水田であったが、その水田の一区画が五反であったことから、いつしか五反田と呼ばれるように。 僅かな戸数の寒村であった五反田も今は城南地域の中核オフィス街。

 駅を出て目黒川に架かる大崎橋を渡り、国道1号を歩道橋で横断し、首都高の高架下を抜けると旧中原街道に入れる。

 旧中原街道の緩い坂道を上った先に見えるのは享保12年(1727)に建立された「子別れ地蔵」(右)。かつて、ここは桐ケ谷の火葬場に続く道筋で、子に先立たれた親が亡骸を見送った場所だそうな。

 その先、民家に挟まれるように四基の石像が立っているが説明板に「旧中原街道供養塔群(一)」(左)と記されている。

 いずれも江戸時代の造立で、中央の地蔵菩薩は江戸時代中期、右側の小さい地蔵菩薩は延享3年(1746)、左側の馬頭観音、聖観音も江戸時代に建てられたもの。

 10分ほど歩いた先にあったのは「旧中原街道供養塔群(二)」(右)。地元の人達が大切にしてきた地蔵尊は造立年代不明だが、隣にある庚申塔は寛文6年(1666)や延宝元年(1673)など江戸時代初期のもの。

 旧道の終わりごろに見つけたのは「座敷箒・スダレ店」(左)の看板。最近は座敷箒を持っている家庭が少なくなったが、このお店では今も売っている。のみならず、店内で箒を作っていたのだ。

 旧道はここで現・中原街道に合流するが、合流点に旧中原街道の説明板が設置されている。

 5〜6分歩いた先のレストラン脇を入ると「平塚之碑」(右)がある。
新羅三郎義光が奥州からの帰途、この地で夜盗に襲われ多数の配下を失ったが、その霊を祀ったのがここにあった塚だという。

 街道に戻って10分、右奥の祠の中に「庚申供養塔」(左)が祀られている。寛文5年(1665)、旧中延村の庚申講中が造立したもので、「南無妙法蓮華経」が刻まれており青面金剛や三猿は彫られていない。


 脇道を挟んだ向こう側に「札場の跡」(右)と刻まれた高札場跡碑が据えられている。 高札場を札場(ふだば)ともいっていたが、この場所は小山(武蔵小山)へ抜ける道の分岐点。人の往来が多かったのだろう。

高札場跡のすぐ先で左に入ると300mほどという短い区間だが旧道が残っている。

 旧道を出たら「さいかち坂」(左)を上っていく。名称の由来は「さいかち原」があったからとも、道の両側にさいかちの木があったからとも伝わっているが、かつては樹木の生い茂る昼なを暗い道であったそうだ。

 東急大井町線のガードを潜ったら三軒通りに入ってちょっと寄り道を。入ってすぐの右側に見えたのは「旗の台伏見稲荷神社」(右)。建立されたのは大正15年(1926)というからつい最近。

 ところが、霊験あらたかこの上ない。太平洋戦争時、出征祈願した兵士120名全員生還、米軍の爆撃もこの地域だけは免れたのだそうだ。
 

さいかち坂を上ったら、今度は「洗足坂」(下左)を下っていく。

 坂上の説明レートによると「江戸期には東海道の脇往還としてさかんに利用されていたが、今より短く急な坂で重い荷車は難儀していたという。大正12年(1923)に緩やかな坂に改修された」のだそうだ。

 坂を下って右の狭い道に入ると、図書館の横に「勝海舟別邸跡」(右)と記された大きな説明板が。

 勝海舟が西郷隆盛との会見に赴く途中、洗足池畔の茶屋で休息。
その時見た洗足池の深山の趣ある自然に感嘆し明治24年(1891)に自ら「洗足軒」と命名した別邸を建築。晴耕雨読の生活をしていたという。
 

 その先の妙福寺山門を入り池畔までいくと「日蓮上人袈裟掛けの松」(左)が見られる。

 弘安5年(1282)、日蓮上人が身延山から常陸国に向かう途中、千束池の畔で休息。 傍らの松に袈裟を掛け池の水で足を洗ったが、この故事から千束池を洗足池と称するように。現在の松は三代目だとか。

 袈裟掛け松の対面にある「馬頭観音道標」(右)は天保11年(1840)に馬の健康と死馬の冥福を祈って建てられたもの。元は中原街道沿いにあったもので台座部分が道標になっている。

 妙福寺山門を入った右手の建物は国登録有形文化財の「妙福寺祖師堂」(左)。天保4年(1833)に七面大明神堂として再建されたもので、後年、現在地に移築して祖師堂として使われている。


 妙福寺から数分歩いた場所にも国登録有形文化財の建物が。

 勝海舟の精神を基本に人材育成の場として清明会が昭和8年(1933)に建てた「旧清明文庫」(右)で、正面玄関のネオゴシックスタイルの柱が特徴的。戦後、出版社の所有となり鳳凰閣と称されるようになった。

 すぐそばに「勝海舟夫妻の墓」(左)ある。洗足池やその周辺の風光を愛した勝は 明治32年(1899)に没したが、「富士を見ながら土に入りたい」と生前から別邸の背後に墓所を用意。後に妻たみも合祀される。

 夫妻墓の横にある小さな祠は「西郷隆盛の留魂祠(りゅうこんし)(右)。

 西郷隆盛と勝海舟との会談により江戸城無血開城が実現したのだが、西郷は明治10年(1877)の西南戦争で落命。その西郷の菩提を弔うため勝海舟が建立したもの。

 せっかくなので「洗足池」(左)を一周して街道に戻ろうではないか。
池には鯉が泳ぎ、水鳥も群れている。 緑も多い。 まるで高原の湖を散策しているようだ。

 遊歩道を歩いていると真っ赤な鳥居が見えたので近寄ってみると、
「厳島神社(洗足池弁財天)」(右)であった。

 由緒によると「長い年月、池中に没していたが、昭和の初めごろより数多くの人々の夢枕に弁財天が現れるようになった。 これが契機で
築島に厳島神社を建立」 したのだそうだ。

 その先に「名馬・池月之像」(左)が見える。

 治承4年(1180)、源頼朝が鎌倉入りの直前、千束池近くに宿営したある夜、どこからともなく現れた一頭の駿馬を家来が捕え頼朝に献上。
馬体逞しくその青毛は池に移る月光のごとく美しかったという。

 すぐ隣の「千束八幡神社」(右)は貞観2年(860)創建という歴史ある神社だが、池月発祥伝説の由来ともなった社。 源頼朝の故事により
「旗揚げ八幡」とも呼ばれている。

 池を一周すると「中原街道改修記念碑」(左)が池畔に据えられている。 千束から多摩川までの間は急坂が多く重い荷車は大変難儀。
大正期に平坦にする改修工事が行われたが、その記念碑である。


 再び街道の旅。十数分歩くと呑川(のみがわ)に架かる石川橋の手前に「石橋供養塔」(右)がある。上部に南無妙法蓮華経と刻まれた石塔は安永3年(1774)に雪ケ谷村の住人らが石橋の安泰を願って建てたもの。

石川橋を渡って15分ほど歩き、環状八号の高架下を通ったら左へ曲がり旧道へ。

 さくら坂上の交差点まで来るとその先は切通しの下り坂。福山雅治の「桜坂」で有名になった「桜坂」(左)である。かつては急坂の難所であったが、大正時代に切通しに改修。それでも結構な急坂だ。

 桜坂を下って数分、左へ上っていく坂道があるが、ここを「おいと坂」(右)と呼ぶそうだ。次のような伝説が。

 北条時頼がこの地を訪れた際、病にかかったが井戸水を使用したところ程なく全治。その井戸を雄井、雌井と称していたが、おいと坂とは雄井戸坂のことではないかと。

 その先右手の東光院脇を流れる水路は「六郷用水跡」(左)。 

 徳川家康が六郷地方の米の増収を図るために造らせた灌漑用水。代官・小泉次大夫吉次に命じて造らせた灌漑用水であることから次大夫掘と呼ばれていた。

 その先で東急多摩川線の踏切を渡り着いた場所は「多摩川 」(右)。
この辺りがかつて丸子の渡しがあった場所。今はその面影全くないが、土手下に説明板が設置されている。

 対岸へ渡るために土手上の道を上流側に200mほど歩くと現・中原街道との交差点際に昭和9年(1934)に完成した「旧丸子橋親柱」(左)が残されている。

 旧丸子橋は片側1車線の狭い橋で歩道も狭かったが「新丸子橋」(右)は片側2車線、思い切り広くなった歩道が両側に付いている。

快適になった新丸子橋を渡ると神奈川県である。

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