鮮魚街道 道中記 鮮魚街道の表紙に戻る

鮮魚街道@ 布佐河岸から富塚まで                街道地図
 かつて大変な賑わいだった布佐河岸は明治末からの堤防工事などで全く消滅し痕跡すら探せない。
鮮魚街道のスタートは堤防下の布佐観音堂からである。 旧街道の雰囲気が僅かに残る道を進み、
手賀川を渡った先から旧道に入ると長閑な街道風景が待っている。『月影の井』『阿夫利神社』などを
見た後は、なんとも無粋な白井工業団地の中を通り白井市の富塚地区へ入っていく。

 平成25年2月28日
 旅のスタート前に利根川の堤防に上がってみたが河岸跡を探す事は難しい。かつては高瀬舟が行き交い大変な賑わいだった利根川も、今は静かなたたずまいの川に。

  堤防を下りた所に「布佐観音堂」(左)が鎮座している。布佐河岸賑やかな頃、鮮魚の運送に使われた馬の慰霊のために問屋、馬主たちが建立したという。本尊は馬頭観音だが魚藍観音も祀られている。

 ここはまた 『取手の春はお遍路さんの鈴の音とともにやってくる』 といわれたほど賑わった新四国相馬霊場の五十八番札所。観音堂横の御堂は「五十八番札所大師堂」(右)。

 今も春になると巡礼ツアーが組まれるほど人気がある新四国相馬霊場。全部巡ると70〜80kmほどになるそうだ。

 鮮魚街道の歩き始めは観音堂裏からである。ここには 鮮魚街道の歴史が記された説明板 が建てられているので一読して出発だ。JR成田線の踏切りを越え、
手賀川に架かる関枠橋を渡ると、左手に「若山牧水歌碑」(左下)が見える。

  はるけくてえわかざりけり沼の上や 近ずき来る鷺にしありけり    牧水
大正14年(1925)、夫妻一行が手賀沼で舟遊びをしたときに詠んだもの。

橋を渡ったら真っ直ぐ行かず堤防を上流方向へ50〜60mほど歩くと旧道に入ることができる。

 旧道に入って1〜2分、江戸時代初期に手賀沼の開拓を手がけた「海野作兵衛頌徳碑」(右)建てられている。洪水に悩まされた手賀沼に利根川へ排水するための流路を作り広大な水田を作り上げたという。

 頌徳碑の先は家々が生垣に囲まれた発作新田集落で「長閑な道」(左)が続く。今は冬枯れで殺風景だが、春になれば田に水が張られ、キラキラ輝く水面を眺めながらの街道歩きになるだろう。

  彼方の田んぼの中にポツンと建っているのが「厳島神社」(右)。 ここも春になって田に水が張られると 『湖に浮かぶ神社』 そんな景色が想像出来る。境内には如意輪観音や十九夜塔・二十三夜塔も。

 ほどなく大杉神社と最勝院跡に到着。多数の十九夜塔と如意輪観音が並んでいる手前に「道標」(右)が立っている。 ちょっと読みずらいが「南江戸道」と刻まれているようだ。

 この先も長閑(のどか)な道が続くが、ひときわ目を引いたのが立派な「長屋門」(右)。

 亀成川に架かる下前川橋を渡り田んぼの中の長閑な道をノンビリ歩いていると猫屋敷が。あっちにもこっちにも猫がいる。その中の一匹がエアコン屋外機の上で「日向ぼっこ」(右)。長閑だね〜

 ほどなく旧道は無くなるので県道59号に入り「浦部の上り坂」(右)を上っていくのだが、歩道が無いので大型トラックが来ると怖わー。上りきった所で右に入ると旧道に復帰できる。


 県道から右へ入って数分、「おー凄い」と声が出るのは「大六天の森」(左)。 写真では分かりずらいが天を圧する大樹はまるでトトロの森。 なんと、ここは前方後円墳の上なのだそうだ。

 森の中に 「大六天神社」(右) が鎮座している。石祠の小さな神社だが、なんとも神秘的な神社である。

 少し戻って坂道を下った先に、鎌倉の星の井・奥州ニ本松の日の井 とともに日本三井の一つであったと伝えられる「月影の井」(左)がある。

 この井は千葉氏の一族・大菅豊後守正氏のうぶ湯・行水の井であったと云われている。その正氏の居城であった「龍崖城址」(右)は対面の細い山道を上った所。

 城址には説明板の類が無いため、詳細が分からないのが残念。

 月影の井周辺は道が複雑に曲っているためちょっと分かりにくい。慎重に選んで歩くと程なく「両側竹林の上坂」(左)に差し掛かる。

 坂を上りきって県道に合流すると左側に馬頭観音があり、その先右側には出羽三山碑が。

 すぐ先に天保10年の銘が刻まれた「百庚申」(右)がずらーと並んでいる。ここの庚申塔も印西地方特有の赤く塗られたもので、百体一列は見事なものだ。

 十数分歩くと三叉路の真ん中に「阿夫利神社大鳥居」(左)が見えてくるが、鮮魚街道はこの三叉路を右へ入っていく。

 石尊参道と刻まれた道標の前を右に曲り、階段を上った所が「阿夫利神社」(右)である。

 由緒によると、『明和元年(1764)、銚子の海底より引き上げられた青石に奇怪のことあり。願いに応じて利益少なからず。住民、これを石尊と称し、鎮守となさんとす』とある。ということは御神体は石のようだ。

 街道に戻りしばらく歩くと久しぶりに商店(えびや)があったのだが、依然として食事ができる場所が無い。お腹が空いたよ〜トホホ。

 えびやの前に「道標」(左)が1本。刻まれている文字は『東 白井道 西 江戸 東京道』。

 ここを逃したら当分食事にあり付けそうに無い。えびやでパンやお茶を購入してちょっと寄り道を。向った先は「延命寺」(右)。

 延命寺の山門は「赤門」(左)。徳川と何か関係が?

 寛弘2年(1005)開基という歴史ある寺院だが、幕府の大目付・井上筑後守政重が下総高岡藩に封じられると、江戸との中間点にあった延命寺を陣屋とし、手厚く庇護していたという。

 赤門を入ると左側に千葉県指定有形文化財の「観音堂」(右)が見られる。禅宗様式の端整な建物は、寛文8年(1668)の建立。萱葺きであった屋根が銅板葺きに変わっているが、キリッと締まった姿が美しい。

 延命寺の先にある「鳥見神社の本殿」(右)も一見の価値がある。
街道に戻ると、その先は「出羽三山碑」(下)や「庚申塔」(下)が飽きない程度の間隔で現れる。

 出羽三山碑や庚申塔を楽しんでいたらいつの間にか「白井工業団地」(左)に入ったようだ。江戸時代の道を歩いているつもりが最先端の工業団地の中とは、時代が変わったねー。

 工業団地を抜け河原子台の交差点を越えるとやっと旧街道らしい雰囲気が戻ってくる。

 10分ほど歩いた先の共同墓地手前にあるお堂は「子安観音堂と大師堂」(右)。墓地の先には庚申塔が10基ほど並んでいる。

 子安観音の先にも「出羽三山碑」(上)や「馬頭観音」、国道16号を横断する手前には文字の読みずらい「道標」などがあり、国道と県道を横断した先の右側には、
ちょっと荒れた感じの「金毘羅神社」がある。 その先は住宅街の中を通っていくのだが、ここがちょっと複雑。「成田不動道標」が見えたら左に曲がり、すぐに右へ曲って行く。

 鮮魚街道はその先で右へ曲がり坂を下っていくのだが、寄り道を。

 向った先は「富塚鳥見神社」(左)。文化9年(1812)建造の本殿が素晴らしい。庇柱には龍が巻きついた一木の彫刻が施され、羽目板にも二十四孝(孝行が優れた人物24人)を題材にした彫刻が施されている。

 参道左の祠の中に、「歓喜天」(右)という珍しい石造が安置されている。人身象頭の男女が抱擁するという双身像で、明和8年(1771)の造立。

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