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 @八幡宿やわたじゅく                     街道地図
 新宿から分かれた成田街道(佐倉街道)の最初の宿場が八幡宿であるが、参勤交代の宿泊地に
ならなかったことから本陣は置かれていない。街道一の賑わいであった船橋宿が近かったため
宿場街としての発展もなく小さな宿場で終わっている。 
 
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 平成24年2月20日

 江戸川に架かる市川橋を渡り左に曲がると「市川関所跡」(左)。石碑が建てられているが当時は小岩・市川関所と呼ばれていた。

 「江戸名所図会・市川の渡し」(右)では左下に関所が描かれているが当時は小岩側が常時開設された関所で市川側は緊急時対応の関所であったそうだ。

 この先の成田街道は片側2車線に改修された国道14号。味も素っ気も無い街道歩きとなってしまうが、それでも途中には2箇所に江戸時代の道標が。

 市川橋を渡って15分ほど歩いた先の歩道際に建てられているのは「青面金剛道標」(左)。天明元年(1781)の建立と云われているが側面に 「西 市川八丁 江戸両国三り十丁」 「東 八わた 16丁 中川一里」。

 さらに10分ほど歩いた先の歩道際に「道標が2本」(右)。左の道標には「左 宮久保山道」と刻まれ、もう1本はかなり読みずらいが寛政11年(1799)と読める。

 八幡宿までは往時の面影が全く無くなってしまったので神社の拾い歩きをしようではないか。それぞれの神社は村の鎮守という風情であるが街道歩きの疲れた足を休めるのに最適。
中でも諏訪神社(下右)は御柱が建てられており黒松の林に囲まれた雰囲気の良い神社。

 市川橋を渡り神社を拾い歩きしながらかれこれ1時間。JR本八幡駅近くまでくるとかなり賑やかになるが この辺りが八幡宿があった場所。しかし今は往時の面影は感じられない。

 ほどなく見えた鳥居の奥は葛飾八幡宮。平安時代の寛平年間(889−898)に京都の石清水八幡宮を勧請して建立されたと伝えられており、かつては下総国の総鎮守であった。

 参道を進んだ先の朱塗りの「随神門」(左)は江戸末期に建てられたとされ 市川市の文化財。

 社殿(冒頭写真)横の「千本公孫樹(せんぼんいちょう)(右)は根廻り10.2メートルという巨樹で国の天然記念物。江戸名所図会によると8月15日の祭礼の日、うつろの中の蛇が音楽を奏でるのだとか。 

 街道に戻ると その先に竹薮が見えるがここは「不知八幡森(しらずやわたのもり)(左)という不思議な場所。江戸時代の紀行文に八幡の薮知らずとして紹介されているが中に入ったら出てこられないという。

 「そんなばかな」と言って入ったのが水戸黄門。ところが魑魅魍魎に襲われやっとのことで逃げ帰ったとか。その他にも様々な伝説が残る不思議な竹薮である。

 その一角に「不知森神社」(右)が鎮座しており傍らに建てられているのは「不知八幡森」と刻まれた安政4年(1857)建立の石碑。

 街道はまだまだ国道を歩くのだが まもなく「木下(きおろし)街道」(左)と記された道路標識が見える。

 江戸の人口が100万人を超えると江戸前の魚だけでは足りず、銚子に水揚げされた魚を舟で利根川の木下河岸まで運び そこから行徳河岸まで陸路9里を結んだ道が木下街道であった。

 木下街道から5〜6分、JR下総中山駅入口の先を左に入ると「法華経寺黒門」(右)が現れる。江戸時代初期の建立と云われているが白文字の浮き出た扁額は掛川城主・太田資順の筆だそうだ。

 黒門を潜ると緩い上り坂の門前町が仁王門へと続き その先が法華経寺の境内。法華経寺は鎌倉時代の高僧・日蓮上人が開いた寺で江戸時代には広く庶民の信仰の対象となっていた。

 境内に入って最初に目にする建物が日蓮上人をお祀りする「祖師堂」(左)。現在の建物は江戸時代中期の延宝6年(1678)に建てられたもので千葉県指定の重要文化財。

 祖師堂の右手に見える「五重塔」(右)は元和8年(1622)の建立。 本阿弥光室が加賀藩主前田利光の援助を受けて建立したのだが こちらも重要文化財。

 時間が許せば法華堂や刹堂などの見学もよいだろう。

 街道に戻って10分ほど歩くと「二子浦の池」(左)と記された大きな看板が。

 看板の向こうに溜池があるが、かつては海に面していた場所なので二子浦と呼ばれていたそうだ。法華経寺を開いた日蓮上人はここから船で鎌倉との間を往来していたのだとか。

 二子浦池のすぐ先、街道の左側に「庚申塔」(右)が1基、歩道際にひっそりと立っている。 
もう少し歩くと街道一の賑わいだった船橋宿へと入っていく。

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