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  A船橋宿ふなばしじゅく                  街道地図

 船橋という地名は日本武尊が東征の折、地元漁民が海老川に舟を並べて橋渡しとしたのが起源と言い
伝えられている。成田詣での旅人で賑わった宿場であったが、船橋大神宮の門前町として また幕府献上の
漁場としても栄えていた。 しかし慶応4年(1868)の市川 ・船橋戦争(戊辰戦争)で宿場の大半を焼き尽くした
ため往時の面影はあまり残っていない。
 日本武尊が東征の折、海老川に舟橋を作ったことが
地名(船橋)の由来とされている。
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 平成24年3月21日

 旧成田街道であった国道14号を東へ向って歩くと「中央分離帯の樅ノ木」(左)が見えてきたが ここはJR西船橋駅の近く。かつてはこの近くまで海が迫っていたそうで街道左手の高台には樅ノ木ならぬ松の大木が沢山見える。

 樅ノ木の少し先を左に入った三叉路に庚申塔が1基。その横に建てられているのは「無線電信所道」(右)と刻まれた道標。

  この奥は東京無線電信所船橋送信所があった場所で、今も直径1km弱の円形道路が残されている。 かの有名な「ニイタカヤマノボレ」の電文を発信した送信所だが思わぬ所に大東亜戦争の遺構がありました。

 街道に戻り十数分歩いた先で左手の階段を上り さらに松の古木が並ぶ参道を数分歩いて着いたところは「山野浅間神社」(左)。

 奈良平安時代から続くというこの神社の祭神は 木花咲耶姫命。毎年7月1日の山開きには近郷近在の善男善女が列をなし登山参拝して大変な賑わいだという。

 参道で比較的新しい「子連れ狛犬」(右)を見かけたが 子供の狛犬がなんとも可愛らしいので思わず1枚。

 山野浅間神社入口から7〜8分、海神地区にある龍神社を訪ねることに。

 龍神社の祭神は娑竭羅竜王(しゃからりゅうおう)、別名 阿須波の神。説明碑に万葉集巻二十の4350 
   『庭中の阿須波の神に小柴さし我は斎(いわ)はむ帰り来までに』 が刻まれている。

この神社は正面から見るとごく普通の神社であるが裏に回ると四面を彫刻で飾られた「本殿」(左)が素晴らしい。

 成田街道はほどなく国道14号と別れ旧道へと入っていく。すぐに見えた山門は「大覚院赤門」(右)。地元の人は赤門寺と呼ぶそうだが歴史は古く天正17年(1589)の創建。

 街道はその先でJR総武線の下を通る地下道で向こう側へ。 地下道を出たら右から合流する道へ入り1〜2分の海神念仏堂へ寄り道を。

 念仏堂は信者が集まって念仏を唱える堂だが堂内に安置されている阿弥陀如来立像は平安時代末期ごろの作だという。

 念仏堂入口の「観音堂」(左)は元禄14年(1701)に江戸神田鍋町の高麗屋佐治右衛門なる富商が建立寄進したもの。堂内に安置されている仏像は佐治右衛門が奉納した三十三体の観音像。

 観音堂の前に立つ「道標」(右)は元禄7年(1694)の建立。元々は街道沿いの三叉路にあったもので刻まれている文字は「右 いち川みち  左 行とくみち」。

 街道へ戻って10分ほど歩くと こちら(西方向)を向いた地蔵堂が見えるが、ここは地元の人が「西向き地蔵」(左)と呼んでいる。疫病や災難を宿場に入れないようにとの願いが込められた地蔵なのだそうだ。


 宿場街に入ってすぐに「いなりや」(右)と記された看板が目に入るが その下に創業慶応元年(1865)と記されている。ざっと150年前から続く老舗の割烹料理店は鰻の蒲焼が絶品。

 江戸時代は大変な賑わいだった宿場街だが今もビルが建ち並ぶ賑やかな商店街。

 千葉銀行の前に建てられた立派な石碑は「明治天皇船橋行在所跡碑」(左)。千葉に来県された折はこの地にあった旅館桜屋に宿泊あるいは昼食・小休みなどで十数回も立ち寄られたそうだ。

 千葉銀行のちょっと先を右に入って寄り道を。

 数分先の不動院入口に「飯盛り大仏」(右)が鎮座。延享3年(1746)に建立された釈迦如来像だが、漁場トラブルで牢死した漁民の追善供養のとき、炊き上げた飯を大仏の口に盛り付けるのだとか。

 街道に戻るとビルの連なった隙間に町屋が見える。 ここは安政年間(1854〜1859)の創業という和菓子の「ひろせ直船堂」(左)。 大正末期の建設という町屋がビルの谷間で頑張っている。

 道路向かい側の昭和初期の建設だという「旧森田呉服店」(右)もビルに挟まれてしまった。

 船橋宿の街道沿いでは唯一この2軒がちょっとだけコンクリートジャングルを忘れさせてくれる。

  森田呉服店の50mほど先、交差点を左に曲がると鳥居も社殿も真っ赤な神社が見えるが ここは「御蔵稲荷神社」(左)。 昭和初期の文人太宰治は鄙びたこの神社を好み 作品にも書き残している。

 稲荷神社前を左に曲がって数分、住宅地の奥にも神社があるが ここは「船橋御殿跡」(右)。

 徳川家康の鷹狩の際に建造された御殿は寛文末年(1670)に廃止となり船橋大神宮の宮司富氏に与えられたが 富氏が御殿の中心であったこの場所に東照宮を建立。「日本一小さい東照宮」なのだとか。

 交差点まで戻ったら街道を横断して円蔵院に寄り道を。地蔵堂を覗いたら、なんと、「円果地蔵」(左)が派手なオレンジ色の布をまといオレンジ色の帽子を被っているではないか。

 因果地蔵とも呼ばれているが盗難にあったらこの地蔵を左結びの縄で縛ると盗人の体に痛みが走り盗品が戻ってくるのだとか。

 街道に戻って数分、宿の東外れを流れる川は海老川、そこに架かる橋が「海老川橋」(右)。冒頭の海老川橋の写真ではちょっと分かり難いが欄干から突き出ているのは船の舳先。

 橋を渡った数分先、交差点向こうの山上は「船橋大神宮」(左)。正式名称は意富比神社(おおひじんじゃ)であるが船橋大神宮の通称で親しまれている。ここも「日本一小さい大神宮」なのだそうだ。

 しかし歴史は古く、景行天皇40年(110)、日本武尊東征の折、東国平定の成就を祈願したのに始まるという。

 かつて、船橋沿岸を航行する船は意富比神社の常夜灯を目印にしていたが戊辰戦争で焼失。明治13年(1880)に再建されたのが拝殿右の高台に建てられた「灯明台」(右)。和風建物に洋式灯台が乗っている。

 旧成田街道は船橋大神宮北側の宮坂を上っていくのだが この辺りは新政府軍と旧幕府軍が激しく戦った戊辰戦争の激戦地。

 宮坂を上りきった先で右に入ると、山門の先に見えるのは250年前に建てられたという「了源寺本堂」(左)。開基は天正8年(1580)というから戦国時代真っ只中。

 本堂の右手奥に「鐘楼」(右)があるが ここは徳川幕府が大砲試射場を設けた場所。試射場が廃止された後は鐘楼堂が造られ時の鐘を鳴らしていたのだがこれも明治4年(1871)に廃止。現在の鐘楼は再建されたもの。

 街道はこの先 坦々とした道が続くのだが、とある路地の奥で猫がじっとこちらを見ているので思わず1枚。三つ指付いて出迎えてくれているような。可愛いんだナ〜。


 旧成田街道はほどなく交差点を渡り国道296号に合流。100mほど先のちょっと古びた堂宇は「地蔵堂」(右)。安政年間(1854〜1859)、悪病が流行したのでこれを鎮めるため建立した地蔵なのだとか。

 国道に合流して10分ほど歩くと字路の向こうに輪宝を乗せた「成田山道道標」(左)が見える。その横を通って真っ直ぐ進む道は家康の鷹狩のために作り上げたという御成街道で東金まで続いている。

 旧成田街道は道標の手前を左に曲がっていくのだが こちらの道は国道296号で現成田街道。

 左へ曲がった百メートルほど先の「庚申塔群」(右)にも道標が。一番右の不動明王の下に刻まれている文字は「右なりたみち」。

 庚申塔群を見た後はてくてくとかれこれ30分。街道際に「御嶽神社」(左)の石柱と石鳥居があるので寄り道を。

 参道を数分歩いた先の御嶽神社は蔵王権現を祀っている神社で、明治維新の神仏分離で現社名に変更。それかあらぬか狛犬が溶岩の上に乗っており いかにも山岳信仰の神社らしい。
 御嶽神社入口から数分の宮出張所前の丁字路際に小さな「道路原標」(右)が申し訳なさそうに立っている。さらにその先数分、今度は堂々たる「長屋門」(右)が。

 街道はほどなく8代将軍吉宗の命によって薬草園が造られたという薬円台に入ってくるが、この辺りは広大な幕府の御料牧場・小金牧の南縁にあたる場所。

 道路際に「庚申塔」(左)が。

 船橋市郷土博物館駐車場奥の石碑は「明治天皇駐蹕之処碑」(右)。明治6年(1873)、近衛兵の演習をご覧になった天皇は、この原に「習志野ノ原」と命名。これが習志野の地名となった。
 

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