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 D佐倉宿 さくらじゅく                              街道地図
 佐倉城初代城主・土井利勝によって町割りされた城下は城の周囲に武家屋敷を、その外側を通る街道筋に商人町が
作られている。特に新町(横町・上町・二番町・仲町・間の町) は間口が狭く奥行きの深い商家が並んでいたが四百年経た今でも
その町割りは変わっていない。
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 平成24年4月25日
臼井宿を出た成田街道は八丁坂を上り 江原刑場跡の横を通り 国道296号に合流。この先の見渡す限り真っ直ぐな道をかれこれ20分。

 坂を下った左側の階段上に「八幡神社」(左)が鎮座。疲れた足に30段近い階段はきついが景色が良さそうなのでちょっと寄り道を。

 元禄年間(1688〜)の創建と伝わるこの神社の脇にそびえるアカガシ(赤樫)は なんと樹齢250年以上なのだとか。

 さすがに30段近い階段を上っただけの事はある。大変に見晴らしが良い。彼方に見える山に 歴博 と書かれたビルが見えるがこの山は これから向かう「佐倉城址」(右)。

 神社から街道に戻ると その先は鹿島川に架かる「鹿島橋」。橋を渡った街道はすぐに右に曲がり5分ほど歩いたら左へ。

 曲った先に見えるのは「佐倉城西出丸下の水濠」(右)。佐倉城は西側と南側を鹿島川と高崎川に守られ北側は印旛沼に続く低湿地。自然の要塞に守られた城であるが さらに水濠と空堀で守られている。

 街道は水濠に沿って山の麓を通り住宅地の中を抜けていく。
 

 ほどなく煉瓦タイルが敷き詰められた十字路に差し掛かるが右の上り坂は佐倉城椎木曲輪へ至る「愛宕坂」(左)。現在は歴博(国立民族歴史博物館)へ行くための坂道となっている。

 坂の途中、右手に大日如来の石仏が。説明板によると この石仏は「臼杵磨崖仏」(右)のなかで最も有名な古園石仏の中心をなす大日如来像なのだそうだ。だが、これはレプリカ

 歴博は考古学・民俗学・歴史学などの研究施設として設立され昭和58年(1983)に博物館として開館。

 古代から中世・近世・近代・現代まで歴史を追って学べる施設であるがとにかく広い。街道歩きの途中に立ち寄るにはもったいない。

 展示物のほとんどは模型あるいはレプリカ。東海道を歩かれた方にはすぐ分かると思うが「草津追分の道標」(右)もレプリカ。やばせ道道標もレプリカ

 見応えのある施設だが模型とレプリカが多く巨大な箱物という印象が拭えない。

 歴博を出たらいよいよ佐倉城の本丸跡に向うのだが この城は石垣のない土づくり。石垣に囲まれた城とはちょっとイメージ゙が違う。

 ニの門跡を通り 一の門跡まで来ると「正岡子規句碑」(左)がありました。 明治27年(1894)に開通した総武鉄道に初乗りし佐倉を訪れたのだとか。
 常盤木や 冬されまさる 城の跡   子規

 その先の一の門跡を抜けると広大な「本丸跡」(右)。

 天文年間(1532〜 )、千葉一族の鹿島幹胤が築城を開始したが工事は中断。その後千葉氏は滅亡。慶長15年(1610)、佐倉藩主に封じられた土井利勝が翌年から築城を開始して6年掛けて完成。

 佐倉城址から愛宕坂下まで戻り再び街道旅を続けることに。

 田町門跡から先は鄙びた街道が500メートルほど続くが その最後の上り坂が「海隣寺坂」(左)と呼ばれる急坂。 かつては荷車の後押しをするおっぺしが活躍したほどの急坂

 坂を上り国道296号に合流して数分、右手奥に「海隣寺山門」(右)が見える。墓地の奥には千葉氏歴代頭首の供養塔があるのだが、残念、見落としてしまった。

 街道をさらに10分ほど歩き新町の三叉路まで来たら左へ曲る道が旧成田街道であるが ちょっと寄り道を。

 三叉路ぎわの旧家は「旧平井家住宅」(左)で明治19年(1886)の大火後に建てられたもの。

  平井家は佐倉城を築城した際の棟梁・平井義兵衛の分家筋。  江戸時代は薪炭商を営んでいたが 明治に入ると郵便局や酒店を経営し大商家となったのだそうだ。

 平井家先の三叉路を右に入ったすぐ先は佐倉の総鎮守「麻加多神社」(右)。社殿は天保14年(1843)、藩主堀田正睦公が再建したもの。境内前面の石垣は最後の藩主堀田正倫公が奉納したものだとか。

 麻加多神社の対面にある石碑は「佐倉養生所跡碑」(左)。 慶応3年(1867)、藩医であった佐藤尚中が長崎療養所に次ぐ西洋式病院として開設したが残念ながら翌年の明治初年に閉鎖。

 もう少し寄り道を。

 養生所跡碑の脇を通り細い道に入ったら道なりに5〜6分。ちょっと薄暗い上り坂は 「くらやみ坂」(右) 。この坂を上りきった鏑木小路に3棟の武家屋敷が保存されている。

武家屋敷3棟
旧河原家住宅 : 弘化2年(1845)以前の建築とされているが、年代ははっきりしない。現在の建物は移築復元したもの。
  旧但馬家住宅 : もともとこの地にあった建物を復元整備したもので、天保8年(1837)以前に建てられたもの。
    旧武居家住宅 : 現在地へ移築復元した建物で、建築年代ははっきりしないが、文化年間(1810〜  )には使用されていた。

 新町交差点まで戻り街道旅を続けようではないか。

  新町の商店街に入ると早速見えたのが「佐倉城初代城主・土井利勝」(左)の名前が染め抜かれたノボリ旗。 この先も二代城主・石川忠総から二十代城主堀田正倫までのノボリ旗がはためいている。

 すぐ先に見える商店は明治15年(1882)創業の「蔵六餅本舗木村屋」(右)。銀座木村屋の2号店としてオープンしたそうだ。求肥の入った甘さ控えめの最中は絶品。

 その先の 「三谷屋呉服店」(左) は寛政年間(1789〜1801)の創業。創業時から呉服商であったが今も高級呉服を扱っている。蔵造りの店舗が町並みによく似合う。

 市立美術館手前を左に入に入ると「旧山口家住宅」(右)が見られる。見世(店)蔵と袖蔵が並んでいる珍しい構造で袖蔵は明治29年(1876)の建築、見世蔵はそれ以降の増築。

 街道に戻ったところの市立美術館エントランスは「旧川崎銀行佐倉支店」(左)の建物で、大正7年(1918)に建設されたもの。ルネッサンス様式のレンガタイル張り建物は宿場風景にはちょっと似合わない。

 数分先の宿場行灯が置かれた商家は「旧駿河屋」(右)。現在は お休み処・一里塚 となっているが旅籠・油屋跡地に呉服商・駿河屋が建てた建物で明治25年(1892)の建築。

 さらに数分先の「佐倉新町おはやし館」(左)には麻加多神社秋祭りに新町を練り歩く山車や人形が展示されている。その華やかさは「佐倉新町 江戸まさり」と呼ばれたほど。

 おはやし館から200メートルほど歩いた先の「歴史生活資料館」(右)には新町界隈の商家や民家から提供された家具や道具類を展示。どれを見ても懐かしい品々。

 ところで、冒頭で「間口が狭く奥行きが深い商家・・・・」と記したが生活資料館の建物はまさに奥行深し。


 生活資料館対面の道路に入って数分、ちょっと奥まった場所に「堀田家墓所」(左)があるが、ここには春日局の養子となった堀田・正俊、佐倉藩十九代藩主・正睦、佐倉藩最後の藩主・正倫の墓がある。

  すぐ先の寺は堀田家の菩提寺「甚大寺」(右)。 当寺は出羽国山形にあった寺院であるが時の山形藩主・堀田正亮が佐倉藩に転封となった際こちらに移転。時は延享3年(1764)

 街道に戻るとその先は枡形に右へ曲り、次ぎは左へと曲っていく。この先でちょっと寄り道を。

 向った場所は「松林寺」(左)。地味な寺院であるが佐倉城初代城主・土井利勝が慶長15年(1610)に創建した寺で本堂は春日局から譲り受けた聖観音を安置する観音堂であった。

 再び街道に戻って石渡家住宅三谷家住宅を見たりしながら かれこれ10分。 「順天堂記念館」(右)に寄り道を。

  蘭医佐藤泰然が天保14年(1843)、順天堂という医学塾を開いた場所で ここで学んだ多くの塾生が明治医学会で活躍。  建物は安政5年(1758)に建てられたもの。

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