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 E酒々井宿 しすいじゅく       街道地図
 「井戸水が酒だった」という伝説がある酒々井は戦国時代に千葉氏が本佐倉城を築いて下総を治め、
政治・経済の中心として栄えていた。たが北条方に味方した千葉氏は豊臣秀吉の小田原城攻めで滅亡。
江戸時代に入ると成田街道の宿場町となったが大きく栄えることなく明治を迎えている。
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 平成24年5月10日

 順天堂記念館前を通った旧成田街道は10分ほど歩くと右側の旧道へと下って行くがその分かれ道に「地蔵が2体」(左)。 お顔は凹凸が無くなって丸くなっているが涎掛けが着けられ大事にされているようだ。

 地蔵の先の「藤坂」(右)は緩い下り坂。先ほど歩いてきた車道とはちょっと雰囲気が違う。その先の上り坂を上り切ったら車道を横断して再び旧道へ。

 旧道へ入った左側に「題目碑」(左)が。この奥は常勝山妙胤寺(みょういんじ)。西安元年(1299)に弥勒院として創建されたが本佐倉城主千葉勝胤の祈願所となり妙胤寺と改名。

 10分ほど歩いた右奥の寺院は「清光寺」(右)であるが馬止めに三つ葉葵が刻まれているではないか。
弘治2年(1556)開山と伝えられる当寺は、徳川家康の父弘忠の分骨を安置供養。家康から50万石を寄進されている。天和年間(1681〜)に建立された本堂は佐倉城主大久保加賀守忠朝の寄進によるもの。

 清光寺対面の道を入ると本佐倉(もとさくら)城址へ行かれるのでちょっと寄り道を。「林間の道を歩き」(左)、田植えの終わった谷戸の田んぼを眺めながらかれこれ7〜8分。

 山裾を回り込むと「双体道祖神」(右)が鎮座している。建立年代は不詳だが「子孫長命祈願」と刻まれていることから子孫の長生きを願って造られたのだろう。

 案内板に従ってもう少し進むと「本佐倉城跡碑」(左下)が建てられているが その後ろの山が「本佐倉城・城山」(左下)。

 本佐倉城は文明年間(1469〜1486)、千葉氏の居城として千葉輔胤によって築城。九代、百余年に渡って下総の政治・経済の中心であった。

 「城山」(左)は城主の私的な館があった場所で櫓や土塁に守られており本丸に相当する。

 空掘りを挟んだ対面が「奥ノ山」(右)で千葉氏の守護神・妙見菩薩が祀られた妙見宮があった場所。

 街道に戻り5〜6分、国道296号に合流した先のファミレス駐車場脇にひっそりと「道標」(右)が立っている。刻まれている文字は「右東京道 此方成田山道」と。小さいので見落としそう。

 国道から分かれた旧成田街道は酒々井宿に入っていくが その入口にある神社は酒々井上宿の鎮守「大鷲神社」(右)。 詳しいことは分からないが上宿の守護神として祀られたのだろう。

 5〜6分歩いた先の「八坂神社」(左)は酒々井宿四町(上町・中町・下町・横町)の鎮守。8月の例祭には飾り神輿と揉神輿が町内を練り歩き勇壮な祭りが催されるそうだ。

 酒々井宿の中心は八坂神社周辺だったようだが今の町並みに当時の面影はあまり残っていない。

 さらに数分、左奥は地元の人が お不動様と呼ぶ「勝蔵院本堂」(右)。元禄12年(1669)に佐倉藩主戸田能登守忠真が不動堂を現在地に移転・建立。不動明王坐像は江戸初期の作と伝わる。

 街道に戻らず勝蔵院前の小道を突き当たりまで進み右へ曲ると酒々井の名前の由来となった「酒の井」(観光用)があり、傍らに建てられた石碑は室町時代に寄贈されたという「酒の井碑」(下左)。

酒の井伝説
 昔むかし、近くの村に年老いた父親と孝行息子が住んでおった。親思いの息子は一生懸命働いて父親の酒を買っていったんじゃと。
ところがある日、どうしても酒を買うお金が作れず途方にくれておったんじゃ。その時、道端の井戸からなんとも良い香りが。それは本物の酒だったんじゃ。
帰って父親に飲ませると「これはうまい酒だ。ありがたい、ありがたい」 ところが、息子以外の人がくむとただの水なんだと。

この話が広まりこの井戸のことを「酒の井」と呼ぶようになり村もいつしか「酒々井」と呼ばれるようになったということじゃ。 
酒々井町ガイドマップより

 街道に戻り数分、酒々井の鎮守「麻加多神社」(左)が街道横に鎮座。 千年以上前に建立されたと伝わる神社であるが酒々井には麻加多神社がもう1社、小麻加多神社が1社ある。

  数分歩いた先のだらだら下る坂道は 下り松と呼ばれているが江戸時代は細い道の両側に樹々が生い茂り昼でも薄暗い場所。 しばしば追剥ぎが出没したとか。今は広く明るい道。 

 その街道際に石塔が三本。説明板には「下り松三山碑」(右)とある。一番大きな石塔がこれまで何回か見てきた出羽三山碑。

 だらだら坂を下る途中の三叉路向こうにちょっとした小山があるが ここは「築山」(左)と呼ばれている。

  資産家・木内常右衛門邸の築庭であった場所で山の上まで登ると大変眺めが良い。 眼下に水田が広がり その向こうに筑波山が望める。晴れた日には富士山も見えるそうだ。

 広場の一角に「明治天皇御駐蹕(ちゅうひつ)記念碑」(右)が建てられているが明治天皇もこの素晴らしい眺望を楽しんだのだろう。 なんと4回もここを訪れたとか。

 街道に戻り次ぎの交差点から旧道に入ると突き当たりに「道標が2本」(左)。佐倉市岩名の仁王尊への道標で「ニ王みち」と刻まれている。もう1本は明治44年(1911)の設置で「酒々井停車場道」と。

 突き当たりを右に曲り道成りに数分、三叉路際の「道標」(右)に刻まれた道筋は「成田佐原道 佐倉千葉道」「七栄三里塚道」。

 街道はこの三叉路を左に取り、国道に合流。数分歩いたら右の旧道に入っていく。

 坂道途中の崖に「道標」(左)が横たわっているが、この道標は岩田長兵衛が明治27年(1894)に建てた5本の内の最後の1本。

 道標が建てられている坂道は「大坂」(右)と呼ばれる長い上り坂。ここでも荷車の後押しをする おっぺしが大活躍であった。

 上り坂の途中、階段上の堂は「大崎馬頭観音堂」(左)。江戸時代、馬を使った運送業者たちによって祀られた観音様。観音像は見られなかったが代わりに元気な馬の扁額が。 


 大坂を上りきった先は「伊篠の松並木」(右)、のはずだが松は数本。 かつては800mに渡って松並木が続いたが昭和末期にほとんど枯れてしまったそうだ。

 松並木の中に「成田山護摩木山供養碑」(左)が何本かある。これは成田不動尊の護摩を焚くための材木を切り出す山林を護摩木山というが、この山を寄付したことを記念する石碑。

 国道51号と平行していた旧成田街道はこの先で国道を横断、坂道を下っていくと台座の上に「お地蔵さんが」(右)。赤い帽子を被り、Tシャツを着て、足元には花が捧げられ幸せなお地蔵さんだ。
 
 旧成田街道はこの先で国道51号に合流。しばらく国道を歩くことに。

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