西浦賀道 道中記
③葉山一色から東浦賀道合流点まで

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街道地図

  ①戸塚から鎌倉まで前半   ①戸塚から鎌倉まで後半  ②鎌倉から葉山一色まで前半  ②鎌倉から葉山一色まで後半  ③葉山一色から東浦賀道合流点まで

 葉山元町交差点から三浦半島の内陸に入った西浦賀道は葉山一色の先から古東海道跡と云われる山裾の
鄙びた道を歩くことができる。 その先は衣笠、公卿を経て京浜急行の京急大津駅先で東浦賀道に合流。
 この区間は旧道が多いのでノンビリと歩くことができる。

平成29年7月1日

 前回終了した県道27号沿いの相鉄ローゼン前から出発。緩い上り坂をしばらく歩くと滝の坂トンネルの手前に「滝の坂」(左)と呼ばれる細い上り坂がある。


 この坂を上り、さらに鳥居を潜って階段を上ると小さなお社(おやしろ)
があるが、ここが「滝ノ坂不動」(右)。 かつては吾妻神社と云われ日本武尊が祭神であったが、現在祀られているのは不動明王。

 お社の右下にある「霊泉井戸」(左)には次の様な伝説が。

 日本武尊が東征の折り、こんこんと麗水が湧き出るこの地で休憩された後、走水から上総国へ向かわれたという。その井戸からは麗水が溢れ出て滝のように流れ下っていたそうだ。

 今は水位が下がり井戸から溢れ出ることはないが、階段下には今も「お不動様の湧水」(右)が竹パイプの先からこんこんと流れ出ている。

 滝の坂はこの先で行き止まり。県道に戻り滝の坂トンネルへ。
 

 トンネルを潜って数分、左側の山裾の寺院は「新善光寺」(左)。鎌倉の名越から移った寺と伝えられており、本堂と山門の四脚門は室町時代に建立されたもので共に県の文化財。

 新善光寺を出て小金坂を下って行くと湘南国際村入口交差点に差し掛かるが交差点向う側の「階段を上ると旧道」(右)に復帰できる。

 この先は車がほとんど通らない長閑な田舎道。 新沢橋を渡り、道中橋を渡ると、山裾の鄙びた風景が広がるがこの辺りの道は古東海道。日本武尊もここを通った事だろう。

 崖の中腹にある地蔵堂に「栗坪の六地蔵」(左)と呼ばれる地蔵尊が。真ん中の地蔵尊はこの辺では珍しい座り地蔵。六地蔵と呼んでいるが、たまたま六体揃ったようだ。


 六地蔵の下にある石仏は「栗坪の庚申塔」(右)。左の2基は元禄4年(1691)と元禄6年(1693)の造立で、青面金剛ではなく阿弥陀如来像となっている。その他に馬頭観音や地蔵尊なども。

 さらに5~6分、猪俣橋を渡った先にあったのはは「寺前の庚申塔」(左)。寺前とはこの奥の西光寺のことだろう。右側の笠付き庚申塔は寛文11年(1671)の造立。左側は傷みがかなり激しい。


 ほどなく県道に合流。しばらく歩くとコンクリートで固めた崖下にひっそりと立っているのは延宝6年(1678)造立の「六字名号塔」(右)。

県道をさらに進むと高速道路の高架橋が見えてくるが、この辺りは高速道工事の影響で浦賀道のルートがはっきりしない。

 不動橋を渡ったら左へ入り高速道路の下を進むと「馬頭観音道標」(左)がある。台座に「右浦賀 左金沢」とあるが元々この場所にあったわけではない。

 説明板によると、文政5年(1822)に建立されたが高速道路の建設により昭和59年(1984)に移設をよぎなくされ現在地に移したのだそうだ。

 その先の県道を横断し高祖坂を上ると三面の馬頭観音と石塔が2基。石塔の右側は「高祖坂の庚申塔」(右)と呼ばれているが三猿の上に文字が刻まれた文字庚申塔で元禄7年(1694)の造立。

 古道の雰囲気残る木古庭の里に鎮座する享保9年(1724)「やぶ地蔵」(左)は先ほどと同じ座り地蔵。 木古庭村と平作村の境界に祀られていたことから境地蔵とも呼ばれている。

 数分歩くと祠のなかに「庚申塔」(右)が2基。この2基も文字庚申塔だが造立年などの文字は読み取れない。

 ちょっと面白いのは左側庚申塔の三猿。なんと、目や口を塞ぐのは片手。これは珍しい。石工の遊び心だろうか。

浦賀道はこの先の十字路を左に曲がり、御国幼稚園前で右に曲がっていく。

 池上小学校先から坂道を上っていくと、「伝馬場坂上の庚申塔」(左)が3基並んでいる。

 真ん中の庚申塔は元禄8年(1695)の造立だが、この庚申塔も珍しい。三猿の内の真ん中の猿は片手で片耳だけを覆っているという変わり者。ズボラだね~

 この先から平作七坂の一つ「伝馬場(てんまば)坂」(右)の下りとなる。
伝馬場とは馬の継立場、坂下に伝馬場があり、すぐ先の平作大橋際には茶店もあったという。

坂を下ったら左へ曲って平作大橋を渡り、県道27号に合流。

 4~5分歩いたら「金谷山大明寺」(左)に寄り道を。明徳3年(1392)、第6世大明坊日栄がこの地に本堂祖師堂等を建立し大妙寺と称したが、江戸時代、16石の寺領を与えられた時の朱印状に「大明寺」と誤記されていたのだそうだ。以来「大明寺」に。なんともはや。


 裏山の墓地に太田道灌の子、「太田資康の墓」(右)がある。長い間、太田資康の墓ではないかと云われていた土饅頭があった場所に妻方の三浦氏子孫が昭和56年(1981)に墓を建立したのだそうだ。

三浦道は大明寺の先から県道を離れ旧道に入って行く。

 山裾の鄙びた道を歩いていると崖下に「三浦一族将士の墓」(左)と刻まれた石塔が小さな祠の中にひっそりと立っている。側面に「昭和十一年・・・・・・・・」とあるが詳しいことは分からない。

 5~6分歩くと「法塔十字路」(右)に差し掛かるが、ここに法塔と呼ばれる石塔が2基。

 左の大きな石塔には「日蓮大菩薩発願霊場」と刻まれ慶応元年(1865)に建立されたもの。右の小さな石塔には「南無妙法蓮華経 金谷山」とある。金谷山とは、金谷山大明寺のことだろう。

 法塔十字路から4~5分、駐車場脇に並ぶのは「公卿町の庚申塔群」(左)。8基並んでいるが、最奥の庚申塔は寛永16年(1639)のもので横須賀市内最古。ちなみに市内には約千基の庚申塔があるそうだ。


 その先を左に曲がり5分ほど歩いた突き当りは天平年間(729~749)に僧行基が開基したと伝えられる古刹「曹源寺」(右)。建久3年(1192)、源頼朝が相模国27寺社に妻政子の御産加持を命じた祈願所の一つ。

 曹源寺から三浦道に戻り十数分、妙真寺の参道に「妙真寺保存金 并(ならびに)神金里共有金碑」(左)が見える。

 説明書きによると「宝暦2年(1754)、檀徒からの奉納金などで寺金(妙真寺保存金)や神金里共有金を作り、運用して里人の負担を少なくした事、これが昭和の時代まで続いた事」などが記されているそうだ。

 さらに7~8分、市営岩瀬アパートの前に「15基の庚申塔」(右)が並んでいる。一番古い庚申塔は天明8年(1788)だが、昭和7年(1932)建立の庚申塔には、なんと複数年の奉納日が刻まれている。

 アパート群の間を右に曲がりしばらく歩くと「天神坂」(左)と呼ばれる下り坂となる。

 大津町内会館前の解説板によると 「町内会館裏に天神社があった」 ことによるという。日本武尊の東征伝説にかかわる古東海道もこの道と推定され、中世には鎌倉へ通じる交通の要衝であったそうだ。

 天神坂解説板前の路地を入ると「愛染稲荷」(右)という小さな神社がある。文化14年(1817)、天神坂に住んでいた七兵衛という人物が江戸加賀町の愛染寺より証書を受け稲の豊作を願って建立したという。

この先は大津公園の間を通り国道134号を横断していくのだが、国道まで出たらちょっと寄り道を。

 大津中学校の正門内側に「大津陣屋石橋」(左)が移設されている。
大津陣屋は天保14年(1843)に沿岸防備のために築造されたもので、川越、熊本、佐倉などの諸藩が代々詰めていた。

 川越藩主・松平大和守によって建設されたもので、面積は約9800坪という広大なも。陣屋には多い時で1500人が詰めていたそうだ。

 国道を横断し突き当たった所は信州・諏訪大社の御分霊を勧請し天長元年(824)に創建したという「大津諏訪神社」(右)。参道途中に「茅の輪」がありましたので久しぶりに8の字回りをしてきました。

 諏訪神社の数分先、信誠寺に「川越藩士の墓」(左)が、どういう分けか山門の外にある。大津陣屋に詰めた川越藩士と家族の墓で、過去帳によると赴任中に亡くなった藩士は6名、家族は28名だったという。


 その先4~5分歩いた路地奥の信楽寺に「坂本龍馬の妻・龍子の墓」(右)がある。坂本龍馬の死後は波乱の人生であった龍子(おりょうさん)だが、明治39年に亡くなり当地に葬られた。

ほどなく京浜急行・京急大津駅。

 駅脇に祀られている「宿守稲荷社」(左)は正徳3年(1713)の創建。
京浜急行線(旧湘南電鉄)開通の際、撤去されたが地域に災いが生じたため現在地に祀り直したという。管理は駅員が行っているのだそうだ


 100mほど先の十字路が東海道保土ヶ谷宿を出発し、金沢八景を通ってきた「東浦賀道との合流点」(右)。 この先は東浦賀道を通って浦賀奉行所跡へ。

 


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