青梅街道 道中記 青梅街道の表紙に戻る

   内藤新宿 ないとうしんじゅく 街道地図
 内藤新宿は甲州街道の宿場だが開設されたのは江戸時代半ばの元禄11年(1698)
高遠藩内藤家の敷地内であったことからこう呼ばれていた。江戸四宿の一つで、宿場機能だけではなく
一大歓楽地としても繁栄を極めている。青梅街道は内藤新宿の追分(現・新宿三丁目交差点)で甲州街道と
分かれ西に向って中野坂を上っていく。

 青梅街道の旅に出る前に新宿三丁目界隈の江戸時代をちょっとだけ覗いてみることに。
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 平成27年4月30日

 最初に向かったのは太宗寺。慶長元年(1596)ごろ僧太宗が開いた草庵が前身とされ高遠藩・内藤家の信望厚く内藤家の菩提寺となっている。

 入口を入ると「閻魔堂」(左)が見えるが この中に新宿区指定の有形文化財である「閻魔大王像」(右)が安置されている。 もちろん奪衣婆像もあるのだが左側の金網越しでちょっと見えにくい。
 

 入口を入った右側に鎮座しているのは江戸六地蔵の一つである「銅造 地蔵菩薩坐像」(左)。江戸時代前期、江戸の出入り口六ケ所に造立された地蔵の一つで甲州街道沿いに三番目の地蔵。

 境内奥の不動堂に収められている三日月不動は高尾山薬王院に奉納するはずであったが 休息で立ち寄った太宗寺境内で盤石のごとく動かなくなってしまったため不動堂を建立し安置したのだという。

 不動堂横に「塩かけ地蔵」(右)なる変わった地蔵さんが。願い事をするとき塩を少しもらい 叶ったら倍の塩を奉納するのだそうだ。

 次に向かった成覚寺に「恋川春町の墓」(左)がある。江戸時代中頃に活躍した浮世絵師・狂歌師・戯作者で、世相・人情を風刺した「金々先生栄花夢」を出版し黄表紙というジャンルを確立した人物だ。

 その隣の旭地蔵には18名の戒名が刻まれているが その内七組の男女はならぬ仲を悲しんで心中した遊女と客達なのだとか。

 本堂前の「合埋碑」(右)と刻まれた碑は内藤新宿にいた飯盛女(子供と呼ばれていた)達を弔うために造立されたもの。彼女達が年期中に命を落すと投げ込むように惣墓に葬られたという。

もう一カ所寄道をと向った先は花園神社。

 大鳥居を潜ると朱鮮やかな拝殿の「花園神社」(左)が見える。寛政年代、移転した先が尾張藩下屋敷の一部で美しい花が咲き乱れる花園のような場所であったことから花園稲荷神社と呼ばれたそうです。

 拝殿の手前に鎮座する威徳稲荷神社(冒頭の写真)に連なる鳥居を潜ると祠の梁に巨大なチン棒が。

 新宿4丁目交差点先の「雷電稲荷神社」(右)は小さな神社だが歴史がある。 雷雨に遭った源義家が雨宿りしていると一匹の狐が現れ三度頭を下げたところ たちまち晴れたという。以来、雷電稲荷神社と。

 忘れてならないのが「天龍寺」(左)。 かつては牛込納戸町にあり江戸城の裏鬼門を護る寺とされていたが天和3年(1683)の大火で類焼し現在地へ移転。

 元禄13年(1700)、第5代将軍綱吉の側用人だった牧野成貞により寄進された鐘は内藤新宿に時刻を知らせた「時の鐘」(右)で夜通し遊ぶ者の「追い出しの鐘」として親しまれ 嫌われてもいた。

 現在の鐘は三代目で明和4年(1767)に鋳造されたもの。上野寛永寺・市谷亀岡八幡の鐘と共に江戸三名鐘と呼ばれている。

 そろそろ青梅街道の旅に出発だ。追分まで戻ったが今は新宿三丁目という無粋な町名。と思ったら交差点角に「追分交番」(左)が。警視庁管内にはもう一カ所甲州街道横山宿の先にも追分交番がある。

昔の町名を使ったバス停が結構多くあるが交番が昔の町名をしっかり守ってくれていたとは。

  追分を出発して5分、JR新宿駅東口広場の一角に世界で3個だけ現存しているという貴重な「馬水槽」(右) がある。 ロンドンから寄贈されたもので東京市役所前に設置され大正初期まで使われたそうだ。

 現・青梅街道(新宿通り)は東口広場前から右に曲がって大ガード下を通っていくのだが 元々の青梅街道のルートが残されていたのです。

 「旧青梅街道」(左)と記された標柱脇の地下道が青梅街道の旧道に繋がっている。

 地下道を抜けると、なんと、「思い出横丁」(右)が健在だった。 戦後の闇市から出発した商店街だが、狭~い通路の両側に飲み屋が連なる風景がなんとも懐かしい。

思い出横丁前にも「旧青梅街道標柱」があり、すぐ先のビルとビルの谷間の細い道が旧青梅街道。ほどなく現青梅街道に合流する。

 現・青梅街道に合流したらちょっと寄り道を。

 街道左手の辺りはかつて東京都民の上水を一手に担った淀橋浄水場があった場所。街道からちょっと奥に入ると「淀橋浄水場跡碑」(左)が見られる。この場所は正門があった場所なのだそうだ。

 30メートルほど先の植込みの中にあるモニュメントは「策の井跡碑」(右)。尾張藩摂津下屋敷内にあった名井で、徳川家康が鷹狩の帰途、策(むち)のよごれを洗ったことから「策の井」と。

 街道に戻り数分、「常圓寺」(左)は創建年代不詳だが天正13年(1585)頃、渋谷区幡ヶ谷から現在地へ移転したと伝わる。本堂には徳川光圀公寄進の三宝諸尊が安置されている。

 入口にある石碑は「便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりふ)狂歌碑」(右)。江戸時代中期の狂歌師で、この碑は文政2年(1819)に建立。 刻まれている狂歌は太田南畝(蜀山人)の揮毫によるもの。

 本堂右手墓地の奥に長崎奉行、江戸南町奉行、大目付などを歴任した「筒井政憲の墓」(左)がある。政憲は嘉永6年(1863)に長崎に来航したロシア艦隊の司令長官プチャーチンとも会談している。

 裏手の道路を挟んだ向かい側の墓地にあるのは東京駅や日本銀行本店など多くの重要な建物を設計した「辰野金吾の墓」(右)。

 常圓寺から7~8分、長い参道の奥は延喜3年(903)の創建という「成子天神社」(左)。建久8年(1197)には源頼朝が社殿を造営したと伝わる歴史ある神社だが現在の社殿はコンクリート製。

 社殿前に「七個の力石」(右)が並べられているが石には重さと人名が刻まれている。七個もあるとは凄いことだが、重さも四十貫(約150kg)から五十八貫(218㎏)。これを持ち上げるとは凄いね~

 街道に戻ったら成子坂を下って行く。

 道路の向う側に祠が見えるが中に鎮座しているのは「成子子育て地蔵」(左)。享保12年(1727)に建立されたのだが先の戦災で壊滅の悲運に。しかし心温かい人達によって昭和26年(1951)に再建。

  数分歩くと橋を渡るがこの橋には不吉な伝説が。 中野長者が財産を地中に隠す際手伝った人を神田川に投げ込んだため行きは二人だったのが帰りは中野長者一人。いつしか 「姿見ずの橋」 と呼ばれるように。

 この地を訪れた三代将軍徳川家光が 「不吉な話でよくない。景色が淀川を思い出させるので淀橋と改めるように」 以降「淀橋」(右)となったそうだ。

 淀橋を渡ったら中野坂を上って中野宿へ。

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