青梅街道 道中記 青梅街道の表紙に戻る

   中野宿 なかのじゅく 街道地図
 内藤新宿と中野宿は僅か半里ほどの近い距離であったが青梅街道(成木街道)が開通した当時は内藤新宿が
無かったため青梅で出荷された石灰の最後の宿次場であった。中野は幕府直轄であったことや鷹狩りの指定地で
あったことから徳川家との関わりが深く、三代将軍家光は七年間の間に29回も中野で鷹狩りを行ったという。
 また五代将軍綱吉が発した「生類憐みの令」に伴う犬小屋が造られ8万頭もの犬が保護されていたのが中野村。
中野村は江戸に近かったことから江戸っ子が食べる野菜の生産地としても活況を呈していた。
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 平成27年4月30日
  淀橋を渡ったら「中野坂」(左下)を上って中野宿に入っていくのだが坂の途中で見つけたのは中野坂のことを説明したレート。

 それによると、この辺りは武蔵野の中央にあるので「中野」と呼ばれこと。坂上には「弁慶」という菓子屋と「大団子」と称する団子屋があり この先の妙法寺への参詣者に好評だったこと、などが記されている。

 中野坂上まで来たら「象小屋の跡」(右)という場所へ寄り道を。

 
享保13年(1728)、中国人貿易商が八代将軍吉宗に献上するためベトナムから象をつれてきたのだが吉宗上覧後はここに象小屋を建てて飼育していたという。

 もう少し寄り道を。 向かった先は中野長者と呼ばれた鈴木九郎の開基である「成願寺」(左)。

 鈴木九郎は紀州出身の商人で当地へ来て商売が成功。財をなしこの地に邸宅を構えたが一人娘の病死を深く悲しみ出家して邸宅を寺院にしたのが成願寺の始まりという。永享10年(1438)のことであった。

 本堂へ向かう途中に「鈴木九郎の墓」(右)がある。

 成願寺にはもう一カ所見どころが。

 墓地の中ほどにあったのは「鍋島家墓所」(左)。 佐賀藩・鍋島家の分家である蓮池鍋島家の四代藩主・直恒が麻布の藩邸で病死し目黒に葬られたが後に墓が成願寺に移されたのだそうだ。

 墓地奥の地蔵尊は「鍋島地蔵」(右)。延宝2年(1764)に建立された地蔵で備前佐賀藩主鍋島家にゆかりの少女を供養するために建てられたと伝えられている。

 街道に戻り次に向かったのは「宝仙寺」(左)。寛治年間(1087~94)に源義家によって創建されたという古刹だが残念なことに大伽藍は戦災で焼失したため現在の伽藍はその後に再建したもの。

 境内左手にある三重塔は焼失した塔とほぼ同じ大きさで再建されたもので飛鳥様式の純木造建築。端正な姿が美しい。

 三重塔の手前に「石臼塚」(右)という変わった塚が。この辺りはそば粉を江戸市中に供給する一大産地。しかし機械化が進み石臼が放置されるようになり これを悲しんだ宝仙寺住職が境内に建てたもの。
 

 宝仙寺の塀に沿ってもう少し奥まで歩くと「山政醤油醸造所のレンガ塀」(左)が移設展示されている。 明治32年(1899)頃の建造と推定されているそうだが中野にはレンガ塀の建物が沢山あったという。

 街道に戻りしばらく歩くと日本の寺では珍しいゴダ」(右)を持つ慈眼寺という寺がある。

 慈眼寺の修補住職はタイ国の王立一級寺院ワットスラケットで修行。そのワットスラケット寺院から仏舎利(お釈迦様のご遺骨)が寄贈されたことからゴダを建立したのだそうだ。

 本堂前にある「馬頭観音」(右)は青梅街道中野追分の三叉路にあったもので四角の台座部分が道標になっている。 刻まれている文字は「左あふめ道(青梅道) 右いぐさ道(井草道)」。

 街道に出て数分、鍋屋横丁という交差点があるが交差点際に「鍋屋横丁碑」(右)があり裏に次のようなことが刻まれている。

  ここは古くから妙法寺へ行く道が青梅街道から分かれているところ。 妙法寺が厄除け祖師として有名になると参詣人で大賑わい。この角地の休み茶屋「鍋屋」はひときわ繁盛したことから鍋屋横丁になった、と。

 鍋屋横丁から20数分、街道際に高さ5mほどの「青銅製燈籠」(左)が妙法寺旧参道の両側に一対。

 明治22年に開業した中野駅から妙法寺へ行く参詣者のために造られた参道の入り口が分かりにくいということで明治43年(1910)に花柳界の人々の寄進によって造立されたもの。

 燈籠前の「蚕糸の森公園」(右)は農林水産省の蚕糸(さんし)試験場があった場所。写真の門は試験場の正門だったそうだ。歩き疲れた足には木陰のベンチが気持ち良い。疲れが取れたら妙法寺へ。

 その前に「真盛寺」(左)に寄り道を。山門を入ると時が止まったかのような静かなたたずまいの境内があり その向こうに安永5年(1776)に建てられ大正11年(1922)に本所から移築したという本堂が見える。

 当寺は三越デパートの前身である越後屋呉服店を構えた三井家の菩提寺で俗に三井寺とも呼ばれている。

 本堂左手の「客殿」(右)と庫裡は明治26年(1893)に旧細川侯爵邸として建設されたものを譲り受け大正14年(1925)に移築したもの。

 真盛寺を出たら「厄除けお祖師さま(おそっさま)」として広く信仰を集める妙法寺へ。

 「仁王門」(左)は天明7年(1787)の建立で東京都重要文化財。
左右一体の金剛力士は四代将軍家綱公が赤坂日枝神社に寄進されたもので、明治元年(1868)に当山に遷座されたもの。

  仁王門を入ると目の前に文化8年(1811)建立の「祖師堂」(右)が。  妙法寺の中で一番大きな建物でおそっさま(やくよけ祖師像)が泰安されている。内部は金箔で覆われており絢爛豪華の極み。

 右手に鐘楼があるが、ここに吊られている梵鐘は江戸・神田で鋳造されたもので享保10年(1725)の銘が。

 鐘楼のさらに右手に極彩色の鳳凰をいだく「鉄門」(左)が見える。ジョサイア・コンドル博士が設計し明治11年(1878)に建立された門でこちらは国指定の重要文化財。

 鉄門の脇を入った奥の「本堂」(右)は文政2年(1819)の建立だが祖師堂に比べ地味な造り。

 境内のさらに奥に有吉佐和子之碑なるものがある。妙法寺と直接的な関係は無いが この近くに住んでおり境内を通って帰宅することが多かったという。

 街道に戻り十数分、真っ赤な涎掛けを付けたお地蔵さんが。いつ頃造られたかは不明だが馬橋村・阿佐ヶ谷村の村民が奉納したのだという。「清見寺のお地蔵さん」(左)として親しまれているそうだ。

 お地蔵さん脇の路地を入った奥が清見寺。

 本堂前の広場はずれで珍しい「馬頭観音」(右)を発見。仏像ではよく見かけるがこれは「三面六臂」の馬頭観音。つい見とれていつ頃建立されたのか見忘れたのが残念。

 街道からちょっと奥まった海雲寺は慶長16年(1611)に江戸八丁堀に開創されたが明治43年に現在地に移転。「山門」(左)は江戸城紅葉山にあった徳川家霊廟の山門を移築したもの。移築の経緯は不明。

 隣の天桂寺に「庚申観音」(右)と呼ばれる珍しい聖観音石像がある。寛文4年(1644)に造立されたもので地蔵念仏講と庚申待講の二つの組織名が刻まれた珍しい観音像である。

右側の地蔵菩薩は寛政7年(1795)の造立。

 街道に戻ったらふたたびテクテクと20分。天沼陸橋信号まで来たら左の旧道へ。数分歩いた先の藤沢ビル裏側にあったのは近代的ビルとは対照的な「長屋門」(左)。
 
 説明書き等が無いが道路際に「明治天皇荻窪御小休所碑」(右)があるということは かなりのお屋敷があったことを示している。

 ということで調べてみると 『名主中田家があった場所で、明治天皇が2度の行幸の際休憩された場所』 なのだそうだ。ビル建設に当たって この場所へ移設・復元したという。

 青梅街道はこの先でJR中央線を斜めに横切っていたのだが今は踏切り無し、と思ったら横断地下道がありました。地下道を通ってJR荻窪駅前に出たら再び青梅街道の旅へ。

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