青梅街道 道中記 青梅街道の表紙に戻る

田無宿 たなしじゅく(柳沢宿)                     
 大久保長安によって開かれた青梅街道に継立場を作るため幕府の要請で谷戸地域周辺から
移住した人達によって形成された宿場であった。住民は田無用水(玉川上水からの分水)が開削される
前は谷戸まで毎日水を汲みに行くという不便な生活を強いられたという。
田無は青梅街道・秩父道(現所沢街道)・富士街道との追分という交通の要所。田無用水完成後は
多くの人が集まり賑わった宿場であった。 しかし戦災で町が焼かれてしまったため往時の面影が
見られないが それでも昔の街道風景が少しだけ残る旧田無宿である。
街道地図
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 平成27年5月6日

 西武新宿線のガード先50~60m、街道際に「庚申塔道標」(左)が建てられている。享保8年(1723)、地元の庚申講の人達が建てたもので道標には「是より左ハあうめミち 是より右ハはんのふ道」とある。

 この庚申塔道標はちょっと先の「秩父道との追分」(右)に建てられていたもだが道路拡張で撤去されここへ移設されたもの。

 その追分にあった旅籠田丸屋は現在も同じ場所でTAMARUYAという酒店を営んでいる。(写真の黒い3階建てビル)
 コメント:その後「TAMARUYA」は廃業されビルも取り壊されている。

 追分を左へ曲がると田無宿へ入って行くのだが ちょっと戻り街道を横断して富士街道へ。

 富士街道の入口に建てられているのは「弘法大師供養塔」(左)。
側面が道標を兼ねているということだが祠の中であることや刻みが薄いことで読みずらい。

 富士街道を数分、街道際にちょっと珍しい「六角地蔵石幢」(右)が。

 六角形の石柱上部に地蔵菩薩立像が浮彫されている。「つや」という女性と「光山童子」の菩提を供養するために建立されたもので江戸・市ヶ谷の石工が彫り上げたものだという。

 街道に戻り追分を曲がって数分、見えた鳥居は「田無神社」(左)。

 創建年代は不詳だが鎌倉時代には尉殿(じょうどの)大権現として谷戸に鎮座していたという。青梅街道の開通に伴い現在地に遷座したもので明治5年(1872)に別当寺から別れ田無神社と改名。

 鳥居を潜ったすぐの「参道階段」(右)は田無神社がこの地に遷座したとき造られたものだそうだ。 江戸初期の造作であるが石工が手作業で削り組み上げた階段は今でも少しの歪みも感じられない。

 社務所対面の「参集殿」(左)は昭和10年(1935)に建てられた建物で国登録有形文化財に指定されている。一般公開はされていないが式台構えの玄関までは見ることが出来る。

 参集殿のすぐ先の小さな石橋は「田無用水の跡」(右)。田無宿先の橋場で二手に分かれた田無用水の一本(青梅街道北側の用水)は田無神社境内を通って石神井川に落されていた。

 石橋を渡った先の「拝殿」(左)は明治8年(1875)の建築だが様々な彫刻が施されている。 その一部が冒頭の写真や右の写真だが軒下や木鼻彫刻、脇障子の彫り物など素晴らしいの一言。

 もっと素晴らしいのが本殿の彫刻。ところが拝観できないのが残念。
安政6年(1859)の建築だが彫刻を手掛けたのは江戸時代の天才彫刻師・島村俊表なのだそうだ。見たいね~

 田無神社を出て旧宿場街に入るとちょっと奥まった所に「総持寺仁王門」(左)が見える。江戸時代は尉殿大権現(現田無神社)の別当寺であったが明治維新後、近隣の密蔵院、観音寺を併合して総持寺と改称。

 仁王門の前を小道が横切っているが これは「やすらぎのこみち」と名付けられた田無用水跡。近くに住んでいれば散歩コースに最適。

 仁王門を入った左手の「妙見堂」(右)に安政6年(1859)に製作された田無村名主・下田半兵衛冨居の木造が安置されている。下田半兵衛は現代の福祉行政の先駆けとも言える善政を行った人物であった。

 その「下田半兵衛の家」(左)が総持寺を出てすぐ先の路地を左に入った奥に現存している。安政4年(1857)に建てられた西東京市最古の建物で入母屋造り三層の茅葺(現在は銅板葺に改築)だったそうだ。

 下田家と反対側の駐車場奥に非常食を備蓄した「稗蔵」(右)が現存している。天保9年(1838)、下田半兵衛は幕府に願い出て飢饉に備える五百石入りの備蓄庫を自費で建設。

 現存の稗蔵は文久3年(1863)に建て替えられたもの。

 稗蔵の前にある「養老田碑」(左)に下田半兵衛が行った善政が記されている。興味を引くのが訴訟の絶えなかった関東の農村において田無村には幕府を煩わせるような訴訟が無かったという。

 近くの小学校にあったのは「養老畑碑」(右)。安政元年(1854)、凶作で苦しむ農民のために下田半兵衛は自分の所有地一丁歩を「養老畑」と名づけて提供。この石碑は養老畑の標識として建てられたもの。


 街道に戻ったら100mほど先の路地を右に入ると観音寺の境内にかなり大きな「宝篋印塔」(左)が。田無村の並木九郎左衛門なる人物が廻国巡礼を成し遂げて寛保3年(1743)に建立した供養塔である。

 青梅街道と府中道の分岐点に立つマンションの一角に祠が組み込まれているが、その中にあったのは「百カ所供養塔と庚申塔」(右)。供養塔は道標を兼ねており側面に「是よりふちう道」と。

 府中道分岐から100mほど先の久米川道を右に入ると「やすらぎのこみち」と交差するが その左側に安永8年(1779)建立の「地蔵尊」(左)がある。道標を兼ねており「右 くめ川 をんだ  左 をめ」と。

 右側にあるのは天保15年(1844)建立の「馬頭観音」(右)。いずれも青梅街道と久米川道の分岐点にあったもの。

 ちなみに「やすらぎのこみち」は青梅街道の北側を流れていた田無用水跡だが南側の用水跡は ふれあいのこみち になっている。

 ほどなく到着した場所は橋場交差点。田無用水の橋が架けられていたことから橋場と呼ばれ田無宿はここまでであった。ここはまた成木往還(東京街道)・青梅街道・立川道(鈴木街道)の追分でもある。また田無宿に流れる2本の田無用水はここで別れていた。

 青梅街道と成木往還が分かれる三角地帯に「庚申塔と地蔵尊」(左)が鎮座している。両方とも服が着せられているんだなー。なんとも写真映りが悪いので脱がして撮影したが、地蔵に服はちょっとなー。

 橋場から十数分、街道からちょっと右に入ると「北芝久保の庚申塔」(右)が祠の中に。延宝2年(1674)に建立されたもので、青面金剛の無い三猿だけの比較的初期の庚申塔である。

 田無宿を出ると次は小川宿であるが当初は広大な原野の中を一直線の道があっただけという。今はどうなっているだろうか。

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