青梅街道 道中記 青梅街道の表紙に戻る

小川宿 おがわじゅく                             街道地図
 大久保長安によって開通した青梅街道は武蔵野台地を一直線に横切っていたが人家の一軒もない
荒漠たる原野。青梅街道最大の難所であった。この街道沿いに新田開発と馬継ぎ場造りを申し出たのが
狭山丘陵の麓・岸村の名主・小川九郎兵衛。田無と箱根ヶ崎の中間点に馬継ぎ場を設け青梅街道沿いに
用水路を開削して入植者を募り小川村を作り上げていった。
 現在は小平という地名に変わり街道沿いには人家が連なっているが、青梅街道は昔と変わらずに一直線。
街道から一歩脇へ入ると今も小川用水の流れがある。
内藤新宿中野宿荻窪から東伏見田無宿小川宿箱根ヶ崎宿青梅宿前半青梅宿後半

 平成27年5月6日
  街道はほどなく小平市に入るが この辺りは旧小川村ではなく旧野中新田(現・花小金井)

 旧野中新田の開拓を行ったのが「円成院」(左)の初代住職・矢沢大堅。新田開発の願いを出し開拓に着手。 移り住む農民が増えたことから享保12年(1727)、上谷保村にあった円成院をこの地に引寺。

 現堂宇は平成3年から6年(1991~1994)にかけて新築されたものだが鐘楼に下がっている梵鐘には天保6年(1835)の銘がある。

 街道に戻り10分ほど歩くと街道際に「子守地蔵」(右)が。子供好きだった浅田周五郎は「死んだら地蔵にしてくれ、子供を災難から救いたい」と遺言。文久3年(1863)、甥の勘兵衛が地蔵を建立したのだという。

 その先右手の鳥居は「武蔵野神社」(左)。野中新田開発の際、全開墾地を12等分、その一つを社地と寺地とし新田開発の目途がついた享保9年(1724)に上谷保村から毘沙門天を村の鎮守として遷宮。

 円成院が管理していたが明治維新の際に分離し末社であった猿田彦大神を祭祀して「武蔵野神社」と改名。

 その「猿田彦大神像」(右)が拝殿前の祠に収められている。氏子の指田氏が精魂込めて製作・奉納されたのだそうだ。大きな鼻が特徴の猿田彦、この像も大きな鼻だ。

 武蔵野神社の先に地蔵がションボリと立っているがここは「地蔵堂跡」(左)。路地手前には地蔵堂供養塔がひっそりと立っている。

 供養塔は佐渡の呑海が名主・高橋定右衛門宅に世話になったお礼に造ったものだそうだが、その高橋定右衛門は明治3年(1870)の御門訴事件で獄死した犠牲者。定右衛門の墓が路地奥の墓地にある。

 この事件は品川県(当時)が発した貯穀制度に反対する野中新田など12カ村の農民の直訴事件。「御門訴事件記念碑」(右)が五日市街道の武蔵野市八幡町に建てられている。関連文章はこちら

 西武線の踏切を渡ってすぐに右へ入ると「小平ふるさと村」があるのでちょっと寄り道を。

 正面入り口脇の赤い屋根の建物は「旧小平小川郵便局舎」(左)。明治41年(1908)に建てられ昭和58年(1983)まで現役で使われていたもの。昭和初期には電話交換業務も行っていたという。

 小川新田開発の中心的役割を果たした「名主・小川家の玄関棟」(右)も移設復元されている。この建物は文化2年(1805)に建てられたもので主屋とは別棟で建てられた格式の高い建物なのだそうだ。

 ここにはその他に旧神山家住宅や開拓当初の復元住宅など開拓時代を象徴する建物が何棟も展示されている。

 ふるさと村を出て5~6分、「延命寺」(左)は武蔵国中藤村・真福寺の塔頭六か寺の一つであったが新田開発で入植した人達が享保18年(1733)に代官に願い出て引寺した寺院と伝わっている。

 山門脇に建てられている「庚申塔」(右)は嘉永3年(1850)に造立されたものだが特徴のある庚申塔だ。青面金剛のお顔は憤怒の相ではなく柔和で笑っているような。
三猿も烏帽子をかぶり狩衣を付けている。さらには扇を持ったり鈴を持ったり御幣を担いだ猿も。

 熊野宮交差点まで来たらちょっと寄り道を。

 冒頭にも説明したようにこの辺りは「逃げ水の里」といわれ家が一軒もない茫漠とした原野。その中に一本の巨木が聳え立っており街道を往来する旅人の良き目印であった。それが「武蔵野の一本榎」(左)。

 宝永年間にはすでに樹齢数百年だったという。残念ながら寛保年間に枯死。2代目も大正3年(1914)に倒潰。現在の榎は3代目。

 その一本榎のもとに祠を建立し殿ケ谷村(現・瑞穂町)に鎮座する阿豆佐味天神社の摂社を遷座したのが「熊野宮」(右)である。時は宝永元年(1704)。熊野宮には夫婦ケヤキと呼ぶ欅の巨樹も。

 ここから平成27年5月15日


 街道に戻り7~8分、仲町図書館前を右に入ると「小川用水」(左)が見られる。小平市は小川用水の整備に力を入れているのだが この日はたまたま「沼さらい」のため水の流れが無かったのが残念。

  さらに7~8分、街道際の平安院は元文4年(1739)の創建。その山門前にあったのは「唐破風笠付庚申塔」(右)。享保2年(1717)に造立されたものだが三猿を含めて綺麗に彫が残っている。

 平安院のすぐ先、民家の塀が一部切られているが その中に享保2年(1717)に造立された「馬頭観音」(左)が。

 この先から道路の幅が広くなっているが ここから旧小川村。その広くなった部分は 小川村の開発者・小川九郎兵衛が明暦3年(1657)に開設した「馬継ぎ場跡」(右)。

 馬継場が開設された事によって小川村は大きく発展。正徳3年(1713)には荷馬158頭が飼育されていたという。


 4~5分歩くと西武多摩湖線を横断するが すぐ右側の駅はその名もずばり「青梅街道駅」。

 多摩湖線の踏切を渡ると大きなビルも無くなり「生垣の続くちょっと長閑な風景」(左)が広がる。

 その先、JR武蔵野線新小平駅の右側に「つたかべの径」(右)と記された標柱が。 ここも小平市が整備を進めている小川用水脇の遊歩道。なんだか歴史ロマンを感じるネーミングだね~
 コメント:用水の左側に遊歩道がある。

 新小平駅から数分、なんと「鎌倉街道と青梅街道が交差」(左)していたのです。
説明板によると「天平の昔(730頃)、府中の武蔵国府と前橋の上野国府を結ぶ一本の官道が通じていた。その後 鎌倉に幕府が開かれると鎌倉街道と呼ばれるようになった」とある。こちらも歴史のロマンがあるね~

 ほどなく小川宿・中宿辺り。中宿という地名は無くなったが「バス停」(右)が「中宿」をしっかりと守っていたのです。後ろの生垣はふるさと村で見た旧名主・小川家。今でも広い敷地だ。

 街道際に堂々とそびえるように建つ「小川寺(しょうせんじ)山門」(左)は平成11年(1999)の改築だが宝暦時代の旧山門の様式を受け継いでいるという。だからかな、昔からここにそびえているような。

 小川寺は新田開拓した小川九郎兵衛が江戸・市ヶ谷の月桂寺住職を勧請して開基した寺。九郎兵衛本人も境内墓地に眠っている。

 修行門を潜り鐘楼の前を通り過ぎると「もう一つの梵鐘」(右)が下がっている。小川九郎兵衛没後18年の貞享3年(1686)に鋳造され小川寺檀家57戸によって寄進されたもの。

 街道を挟んで小川寺の斜め向かいが小平神明宮だが その入口に「道標」(左)が一基。正面は風化が進み全く読めないが側面に刻まれた文字は「是より 北山口 東江戸 道」。

 鳥居を潜ると小さな石橋の下に小川用水の流れが。ケヤキ並木が続く参道の奥に文政年間に建立されたという「小平神明宮の拝殿」(右)が見える。

 寛文5年(1661)、殿ケ谷村(現瑞穂町)に鎮座する阿豆佐味天神社の摂社であった神明社を遷座し小川村の総氏神とした。

 街道に戻り数分、青梅街道から立川通りが分岐している。

 立川通り側にちょっと入ると「竹内家の大ケヤキ」(左)が天を圧倒。竹内家の祖先がこの地に移り住んだ寛文年間(1661~1671)に植えた樹木の一本で樹齢は330年以上、樹高は33m以上だという。

 ほどなく青梅橋交差点に到着。かつてここには野火止用水が流れており「青梅橋」が架けられていた。昭和38年(1963)に暗渠となり橋は無くなったが交差点名だけは今も「青梅橋」

 交差点を渡った向う側に「青梅橋欄干と庚申塔道標」(右)が。庚申塔道標には「西おうめみち 北山くちみち 東江戸 南八王子道」と。

 交差点を渡ると西武線・東大和市駅。旧青梅街道は駅前を左に曲がり「桜街道」(左)に入って行く。

 街道際の植込みに「桜街道説明レート」(右)が。それを読むと「旧青梅街道は かつて江戸街道と呼ばれ美しい桜並木になっていました。花の咲く頃は、まるで白い幕を引いたかのように見えたそうだ」と。

 この先しばらく(約1時間ほど)は桜街道・江戸街道をてくてくと。
途中には大型スーー、森永乳業工場、多摩都市モノレール桜街道駅、村山団地などが厭きない程度に出現してくる。

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