青梅街道 道中記 青梅街道の表紙に戻る

箱根ヶ崎宿                         街道地図
 南北に走る千人同心街道と東西に走る青梅街道が交わる箱根ヶ崎は交通の要衝として大変な賑わいの
宿場であった。  江戸時代後半に入ると商業目的の人馬のみならず日光参拝や、富士講、御嶽講など
観光目的の旅人でも賑わったという。明治時代に入ると千人同心の日光勤番が廃止されたことや輸送形態が
変わったことなどで次第に旅籠の数も減り 今は静かな町並みとなっている。
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 平成27年6月8日

 小川宿を出た青梅街道は武蔵野台地を西へ西へと進み青梅橋跡からは桜街道に入るのだが桜が終わったこの季節はちょっと単調な街道歩きとなる。

 ほどなく見えたのが「多摩都市モノレールの桜街道駅」(左)。下を芋窪街道が通っている。

 青梅橋跡からテクテク歩いてかれこれ1時間、都道55号と交差する「榎交差点」(右)から先の旧青梅街道は路地のような細い道が300mほど続きその先は消滅状態。

 大型スーーの脇を通って残堀川に架かる上砂橋を渡ると旧道に復帰できる。その先は一直線に青梅へ向かうのだが またまた行く手に米軍横田基地が。五日市街道、千人同心街道の二つの街道が基地で分断されたが今回の青梅街道も。

 横田基地を横切る青梅街道は原江戸街道とも呼ばれた道であったが
茫漠とした原野の中を通る道であったため、旅人は手前から北に進路を変え、殿ヶ谷村を通って箱根ヶ崎へ向かっていた。しかしこの道も途中は宅地開発の影響で消滅状態。近い道を歩く事に。

 グリーンタウン南の信号から右に入り住宅地の中を5分ほど歩くと道路際に「馬頭観音道標」(左)が建てられている。
明治44年(1911)に、300mほど南の原江戸街道と旧青梅街道の分岐点に建てられたもので、刻まれている文字は右側面に「右青梅街道」、左側面に「左羽村道」と。羽村道は原江戸街道のこと。

  道標のすぐ先を左に曲がって住宅地の中を進むと大型ホームセンターの先に見えたのが「一本榎」(右)。 榎の下に鎮座しているのは文化10年(1813)建立の庚申塔。ここには「江戸街道」と記された表示もある。

 一本榎から先は旧道の細い道が続く。10分ほど歩いて新青梅街道を斜めに横切るとその先も旧道の細い道が続いており、さらに15分ほど歩くと千人同心街道に合流して右へ曲がっていく。

 その角の家が「旧旅籠関谷家」(左)。江戸時代の御嶽神社参詣案内書「御嶽菅笠」に旅籠関屋として紹介されているのが関谷家である。

 千人同心街道に合流した青梅街道は150m程先の「旧日光街道交差点」で左に曲がっていくが その角の店が「漢方の會田商店」(右)。創業は明治5年(1872)だとか。
 

 旧日光街道信号を左折して数分、街道際の円福寺山門を潜ると見上げるように大きな立派な「仁王門」(左)が。

 円福寺の創建年代は不明だが この仁王門は平成12年(2000)に「円福寺開山400年記念事業」として建てられたのだそうだ。

 本堂の左手前、六地蔵の後ろに「庚申塔道標」(右)がある。台座部分の文字はほとんど読み取れないが 「左みたけ道」 と刻まれているそうで、元々は旧日光街道交差点にあったもの。

 円福寺の先、JR八高線踏切りの手前を右に曲がってちょっと寄り道を。

 向かった先は「狭山池」(左)。古くから「筥の池」として知られ源義家が奥州征伐の途中、近くに陣営したという。 池畔には鎌倉時代の夫木集(夫木和歌抄)に収められた歌が刻まれた歌碑が建てられている。

   冬深み 筥の池べを朝ゆけば 氷の鏡見ぬ人ぞなき ?経法師

 歌碑のそばにある「大常夜灯」(右)は残堀川に架かる千人同心街道の大橋のたもとに慶応元年(1865)に建立されたもの。関東大震災で倒壊してしまったが火袋などを修復してこの地へ再建。
 

 池に突き出た弁天島に小さな祠があるがここは「厳島神社」(左)。中里里介山の大菩薩峠に次のような下りがある。

 狭山の尽くるところに、狭山の池があります。その中に小さな島があって、ささやかな弁天の祠がまつられてある。・・・・兵馬と別れた七兵衛が、ひとり、こっそりとこの弁天の祠に詣でたのは、その翌日の真昼時であります。・・・・ 弁天の祠が厳島神社のようだ。

 その左手にある「馬頭観音」(右)は安政3年(1856)の建立で、台座部分に「中村」と大きな字が刻まれている。

 さらに左に移ると比較的新しい「蛇喰い次右衛門像」(左)が。「蛇喰い次右衛門」には次のような伝説がある。

 ある日、次右衛門が水浴びをしていると蛇が絡みついてきました。次右衛門が蛇を掴み噛みつくと、蛇はたちまち大蛇に変身し傷口からは血が七日七夜流れ続きました。退治された蛇とともに池は小さなものとなってしまいました。その時の水の流れがさながら大蛇のようであったので「蛇堀川」と呼ばれ、後に「残堀川」になったという。

 その「残堀川」(右)が狭山池から流れ出ているが、なんだか大蛇がのたうっているような。

 街道に戻りJR八高線の踏切を越えて数分、岩蔵街道が右に分かれていくが その三叉路は古くは「宗安塚」(左)と云われ道標が2本建てられていたという。

 青梅街道をさらに西へ進み瑞穂松原交差点で新青梅街道と合流。さらに10分ほど歩いたらちょっと寄り道を。

 向かった先は街道から100mほど入った奥の東善院。本堂の対面に北向地蔵堂があるが その入口に鎮座しているのは「勝軍地蔵」(右)。軍帽を被り馬に跨っている。地蔵様らしからぬお顔がなんとも滑稽。

 まもなく青梅市に入るが、上下4車線の広々とした青梅街道を歩くのでしばらくは江戸時代お預け。

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