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下田村                            街道地図
下田街道の終点下田村は江戸と大阪の間を行き来する船の風待ち港として栄え、最盛期は
年間3千隻の千石船が入出港したという。幕末の嘉永7年(1854)ペリー提督率いる黒船艦隊が
来航。日米和親条約が締結され函館港と共に開港、同年に日英、翌年には日露和親条約が結ば
れるなど長かった鎖国から国際社会との付き合いを始める第一歩となった地。

 下田には今でも海鼠壁の建物が散在し風情ある町並みを楽しむことができる。
三島宿原木村大仁村湯川橋から湯ヶ島まで湯ヶ島村天城峠越え旧天城トンネル梨本村芽原野村箕作村下田村
 平成26年10月8日

お吉が淵を見た後、国道と別れ旧道に。数分歩いた先の向陽院境内の「地蔵堂」(左)に多数のお地蔵さんが祀られている。江戸時代、風待ちの船頭さんが海上安全を祈って奉納した地蔵さんなのだそうだ。

立野橋を渡った所に「大乗経塔」(右)が建てられている。保存状態は良いのだが建立年や由来などの刻銘が無いため詳しいことは分からない。

大乗経塔から5~6分歩き本郷橋を渡って数分、右手に見えたのは見事な「海鼠壁の民家」(左)。建築年代は不明だが「これぞ下田の古民家」。

海鼠壁民家の脇を入った先は「竹麻神社」(右)。聞いたことが無い神社名だが由緒書きが無いため詳しいことは分からない。手入れが行き届いており大切にされている神社のようだ。

街道に戻るとその先に「反射炉跡」(左)と記されたバス停が。韮山で反射炉を見てきたが最初に反射炉の建設を行ったのはこの地であった。地元の人に聞くと「路地を入った奥だが今は何も無いよ」という。

反射炉建設現場にペリー艦隊の水夫が入り込んだため急遽、建設場所を韮山に変更したのだとか。

旧街道はその先7~8分歩いたら右側の細い道を高台へと入っていくのだが、その途中に水上安全を祈願して建立された「地蔵尊」(右)が鎮座。

ほどなく右側前方に見えてきたのは「下田富士」(左)。この山は実は駿河の富士山の姉だという面白い伝説がある。
駿河の妹富士は冬になると雪をかぶり美しい姿に。人皆、「駿河の富士は美しい」と言うため妬んだ姉富士は間に天城山という屏風を立て見えないようにしてしまったのだとか。このため妹富士は姉を見たいと毎日背伸びしたため益々高くなったという。

ほどなく下田の市街。街道際の福泉寺門前に「日露談判下田最初の応接所跡」(右)と刻まれた石碑と徳本名号塔がある。ロシア使節プチャーチンと最初の日露和親条約締結への交渉を行ったのがこのお寺。

福泉寺の先で国道135号を横断したら「稲田寺(左)へ寄り道を。
稲田寺はロシア使節プチャーチンとの交渉に当たった川路聖謨が宿舎とし、東海地震・津波後には仮奉行所となった。

その東海地震・津波(安政東海地震・1854)で犠牲となった100名以上の御霊を供養するため、 時の下田奉行・伊沢政義が実費で「津なみ塚」(右)を稲田寺境内に建立。

ちなみに福泉寺でプチャーチンと日露条約の交渉開始翌日に地震と津波が発生。その後の交渉は長楽寺で行われた。

稲田寺にはまだ見どころが。

山門の右側に見える阿弥陀堂に祀られているのは平安時代後期の作と伝わる「阿弥陀如来坐像」(左)。観音・勢至菩薩を両脇に従えた高さ2m超の立派な仏像は見応え十分。

また左側の墓地内には「鶴松の墓」(右)がある 。お吉との仲を無理やり裂かれた本名・川井又五郎はハリスと別れたお吉と再会し結ばれたがまもなく離婚。翌年の明治9年(1876)に急死。

稲田寺を出たら路地に戻らず参道を進んで街道に戻ると「伊豆の踊子の宿」(左)と記された看板が。
「伊豆の踊子 第六章」の出だしに次のように記されている。

甲州屋という木賃宿は下田の北口を入ると直ぐだった。私は藝人達の後から屋根裏のような二階へ通った。 

甲州屋の前を通り 三叉路を左に曲がるとその先は「下田街道の終点 みなと橋」(右)。 三嶋大社前を出発し天城峠を越えて17里14町(約67km。歩き通しました。
コメント:下田街道の終点は定かではない。川島青年が船に乗った当時の下田港が稲生沢川の河口ということと、踊子と川島青年が最後に泊まった甲州屋に近いということで「みなと橋」を終点とした。

せっかくここまで来たのでちょっとだけ下田を見ていくことに。

稲生沢川沿いにしばらく歩くとペリー艦隊来航記念碑」(左)が見られる。嘉永7年(安政元年-1854)、日米和親条約が締結され即時開港となった下田にペリー艦隊の乗組員が上陸したのがこの地であった。

ペリー提督が了仙寺まで行進した道が「ペリーロード」(右)。平滑川沿いの石畳道で柳並木に海鼠壁や伊豆石造りの風情ある家が並ぶという散策路です。

ペリーロードからほど近い場所の なまこ壁の建物は「安直楼」(左)。米国総領事ハリスに仕えた「お吉」が、後年、小料理屋を経営した建物。だが酒に溺れ数年で店をたたんでしまったという。

下田駅に向かう途中の民家前に建てられた石碑は「吉田松陰投宿の跡碑」(右)。密航を企てた吉田松陰と金子重輔が下田で最初に泊まった宿が旅館・岡村屋であった。

コメント:旅館・岡村屋はその後、下田屋旅館という名で営業していたが今回訪れた時は玄関ガラス戸に記された下田屋旅館という表示が無くなっていた。

伊豆急下田駅に向かう途中で「宝福寺」(左下)に寄り道を。

宝福寺に滞在していた山内容堂(土佐藩15代藩主)は勝海舟の請いを受け入れ坂本龍馬の脱藩を免罪。龍馬飛翔の原点となった寺で駐車場の端に建てられているのは「坂本龍馬飛翔の地碑と龍馬像」(左)。

また、「お吉」の墓があることでも知られている。
お吉の墓は お吉記念館の中にあるため時間の都合で見ることはできなかった。
 
街道歩き旅の最後である下田駅に到着すると「黒船サスケハナ号」(右)が。もちろん模型だが下田らしいね~


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