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三島宿みしまじゅく                      街道地図
下田街道は東海道・三島宿の三嶋大社鳥居前が起点。三嶋大社に旅の安全祈願を
したら大鳥居をくぐり旧東海道を横断して下田街道の旅に出発。

この道は源家再興を祈願して三嶋大社に百日参りをした源頼朝が通った道。
この先しばらくは源頼朝ゆかりの地が多い。

三島宿原木村大仁村湯川橋から湯ヶ島まで湯ヶ島村天城峠越え旧天城トンネル梨本村芽原野村箕作村下田村

 平成26年4月23日
三島駅に降りたら真っ直ぐ下田街道の起点へ行ってしまうのはもったいない。ちょっと寄り道を。

まず立ち寄ったのは駅から5~6分の楽寿園。

明治23年(1890)、小松宮彰仁親王の別邸として造園された名苑で、原生林の中に「楽寿館と小浜池」(左)が静かにたたずんでいる。かつては満々と水を湛えていた小浜池だが今はご覧の状態。残念。

楽寿園を出たら坂を下って白滝公園へ。傍らに流れる「桜川」は富士の湧水。説明板に「農業用水として・・・・」などと無粋な言葉が並んでいるが実は”ハヤ” が泳ぐ清冽な流れ。

三嶋大社へは「桜川沿いの散策路」(左)を歩いていくのだが その入口に「水辺の文学碑」(右)と刻まれた石碑が建てられている。

大岡信、宗祇、若山牧水、司馬遼太郎など十二基の文学碑が並んでおり、これらを訪ねながら歩いていくと三嶋大社前。

 文学碑はこちら

創建時期は不明だが奈良・平安時代の古書にも記録がある「三嶋大社」(左)は東海随一の神格という。

伊豆に流された源頼朝が深く崇敬し源氏再興の旗揚げをした日が三嶋大社例大祭の日であった。

鳥居をくぐり境内に入ると右手の池畔に建てられているのは「若山牧水歌碑」(右)。

   のずゑなる 三島のまちのあげ花火 月夜のそらに 散りて消ゆなり

参道を進み総門を潜った先に見える「神門」(左)は慶応3年(1867)に再建された総欅の唐破風造り。欄間の彫刻が見事。

神門をくぐらず右手に移動すると、そこにあるのは源頼朝・北条政子が腰かけたという「腰掛石」(右)。

治承4年(1180)、源頼朝が平家追討の心願を込めて百日参りをした折、政子とともに腰かけて休息したと伝えられる石。

神門を潜った先に「舞殿と拝殿」(左)が見えるが共に慶応2年(1866)の建築。拝殿は国指定の重要文化財。

拝殿の奥に見える重要文化財の本殿が素晴らしい。高さ16メートルという大きさは出雲大社とともに国内最大級。

最大級といえば天然記念物に指定されている「樹齢1200年の金木犀」(右)。十月上旬に満開となるそうだが その馥郁とした香りは10km先にも及ぶという。

「正面鳥居」(左)まで戻り いよいよ下田街道の旅、出発。

鳥居の向う側、鳥居に並行している道路は平成17年(2005)12月に歩いた旧東海道。 向こうへ真っ直ぐな道が下田街道。

出発して4~5分、民家前に「国分尼寺跡碑」(右)が建てられているが、伊豆国分尼寺は承和3年(836)に焼失し再建されることがなかったため詳しいことは分かっていない。

尼寺跡碑の先、東本町北交差点際に「富士山景観ポイント」(左)なる説明板がある。 思わず振り返ったが残念ながら雲が出ていて富士山は見えない。雲が出ていなければこんな感じで見えるそうだ。

その先数分のところにあったのは悲しい言い伝えが残されている「言成(いいなり)地蔵尊」(右)。

時は貞享4年(1687)、播州明石の大名行列前を横切った娘を城主松平若狭守直明が斬れと厳命。後に地蔵尊が祀られたが大名の言い成りに斬られたことから言成地蔵尊と名付けたのだとか。

言成地蔵から数分先の交差点を左に曲がって寄り道を。 向かった先は「妻塚(さいづか)観音堂」(左下)。

蛭ケ小島に流罪中の頼朝は源家再興を祈願して百日の間、毎夜三嶋大社に詣でていた。

頼朝暗殺を命じられた大庭景親はある夜、女の着物を着た頼朝らしき姿を見つけ一刀のもとに。ところがそれは夫を思いとどめさせようとした妻だった。景親は大変悲しみ塚を建て菩提を弔ったという。

街道に戻り次に向かったのは「間眠(まどろみ)神社」(右)。頼朝は百日祈願の途上、社の松の大樹の下でしばし仮眠の夢を追われたのだが世人此の松を間眠の松と言い 社を間眠宮と称えたのであった。

街道は伊豆箱根鉄道・三島二日町駅の先で踏切を渡り製菓工場の前をてくてくと。

ほどなく到着した場所は「手無地蔵堂」(左)。その昔、この御堂のそばにあった石地蔵が化けては人を驚かせていたそうだ。ある時、若侍の髪を引いたらその若侍に左手を切り落とされてしまったのだとか。

矢倉沢往還でよく見かけた唯念上人名号塔が地蔵堂の傍にもありました。名号塔の後ろには馬頭観音や庚申塔など「江戸時代の石造物」(右)が多数。

20分ほど歩いたら右側の路地を入ると突き当りが「左内神社」(左)。当社は かつては下田街道の東側にあったが明治時代の火災で焼失し現在地へ遷座。

左内があるなら右内もあるのではないかと地図を見ると、梅名川(御殿川)を挟んだ西側に「右内神社」(右)がある。ここにも源頼朝ゆかりの石碑が。境内右手の石碑に刻まれた文字は頼朝公手洗水跡

両神社は三嶋大社の随神門として かつては下田街道の左右に鎮座。

街道に戻ると下田街道はその先の大場(だいば)橋を渡っていくのだが橋手前の石碑は「大場橋供養塔」(左)。大場橋の修理作業中に無くなった人夫供養のために文化15年(1818)に建てられたもの。

大場橋を渡ったらその先の丁字路を右に曲って4~5分、廣渡寺前に「大場の久八之墓所」(右)があるが、はて、大場の久八とは?

清水次郎長も頭が上がらなかったという侠客が大場久八。数千人の人夫を指揮して東京湾岸のお台場を作った人物だ。
久八の正式な墓は廣渡寺墓地内にある。

この先30分ほど歩き蛇ケ橋を渡ってさらに10分ほど歩くと最初の人馬継ぎ立て場である旧原木村であるが、途中には唯念名号塔道祖神などがあるので これらを拾っていくことに。 

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