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 旧天城峠越え        街道地図
   二本杉峠越え(江戸時代の下田街道)
 文政2年(1819)に豆州・梨本村の名主であった板垣仙蔵が私財を投じて開通させた
天城越えのルートで、頂上に二本の杉の大木があることから二本杉峠と呼ばれている。
 明治37年(1904)に旧天城トンネルが完成するまでは三島と下田を結ぶ天城峠越えの
幹線道路で、この道を多くの重要人物が往来。
 老中松平定信、タウンゼントハリス、谷文晁、滝沢馬琴、吉田松陰、唐人お吉なども
この峠を越えている。

 下田街道を踏破する為には何としても越えなければならない峠道。だが、頂上に「遊歩道
流出のためこの先通行禁止」 の表示がある。 実際に歩いてみると、道なき道を歩く場所が
あるためお勧めるすることはできない。踊子歩道を歩き通すほうが賢明のようだ。
三島宿原木村大仁村湯川橋から湯ヶ島まで湯ヶ島村天城峠越え旧天城トンネル梨本村芽原野村箕作村下田村

平成26年7月30日


 浄蓮の滝から戻ったら、旧下田街道はこれまでの天城遊歩道から
「踊子歩道」(左)に変わる。駐車場の道路対面に「これより踊子歩道です」と記された標柱が立てられているのですぐ分かる。

 歩き始めて1~2分、道路際に「穂積忠文学碑」(右)が。
 春もやや 日かげさびしくなりにけり さわわさび田の逃水の音

大仁生まれの穂積は、歌集雪まつりのあとがきに「天城山麓の山葵田は自分のもっとも愛好する魂の故郷だ」と記している。
 なんと、碑の後ろは静岡県の「山葵研究拠点」であった。


文学碑の前から道なりに緩い坂を上っていくと鄙びた雰囲気が残る旧下田街道(踊子歩道)がどこまでも続いている。



 10分ほど歩いたところに見えたのは「島崎藤村文学碑」(左)。
藤村の「伊豆の旅」の一節が刻まれている。
   茅野という山村の入口で吾輩は三人ばかりの荒くれた女に逢った
   「ホウ 半鐘がありますぜ。斬気なところに旅舎も有る・・・・・


 踊子歩道はこの先で国道に合流したすぐ先から山中の道へ入るが、数分歩くと「横光利一文学碑」(右)が遊歩道からちょっと外れた奥に。

 「寝園」の表題が。そして、「一度遠くへ去った犬の團塊が、山毛欅の森の端を迂回して、・・・・・」と伊豆山中での狩猟の一場面が刻まれている。


 文学碑のすぐ先に見えたのは「お手植えの杉」(左)。

 隣の石碑に、「昭和二十一年八月二十三日 当時皇太子であられた天皇陛下が八丁池に行敬の折 お手植えになったものです。  平成二年三月吉日」」とある。


 踊り子歩道はお手植えの杉の先で国道に合流し、「踊子歩道→」(右)の標柱が見えたら再び右側の林の中へ。


 林の中を数分歩き、橋を渡って階段を上がると、突然目の前の景色が一変。ここは「道の駅・天城越え」(左)。

 ここでお勧めしたいのが道の駅の一角にある「昭和の森会館」敷地内に移設された「井上靖旧邸」(右)。明治23年(1890)の建築ということだが、しっかりした造りは今でも十分に住めそうである。

 洪作少年がおぬい婆さんと過ごした屋敷裏の蔵は残念ながら取り壊されてしまったようだ。

昭和の森会館脇を通って踊子歩道に入ると、さっそく現れたのが踊子歩道入口門、その先に整備された遊歩道が続く。



 数分歩くと小さな神社が見えるがここは「山神社」(左)。山々をつかさどる神(大山衹命)を祀った神社で、雨乞いや豊作祈願をした村人にとっては大切な神社であった。

 林の中の遊歩道を抜けると開けた場所へ出るが、その先は林道へ。ほどなく林道は右へカーブして橋を渡っていくが、「踊り子歩道は真っ直ぐ階段を上っていく」(右)。

 階段を上る前に、ちょっと遠いが寄り道を。


 林道を右に曲がると目の前に見えたのは「井上靖獵銃碑」(左)。
井上靖の短編小説・銃の一部が刻まれているようだが、ほとんど読み取れない。

 獵銃碑を見た後は林道をてくてくと30分、目指すは「太郎杉」(右)。結構きつい上り坂であったが、天を圧倒する太郎杉を見た時はここまで登て来た甲斐があったというもだ。

 天城山中で一番大きな杉の木で、推定樹齢400年、樹高48メートルという巨木。周囲の杉の木を圧倒する存在感が勇気を与えてくれる。

ここから平成26年9月3日


踊子歩道の階段下まで戻り、階段を上がって旧下田街道の旅 再出発である。
要所、要所に行き先が表示され、 小川には簡単な橋も架けられ、 崖際には柵も設置されている。  ほどなく見えたバス停は「ゆうゆうの森入口」


 「ゆうゆうの森入口」から再び林道を歩き、大川端橋を渡った先から旧下田街道は「踊子歩道と別れ二本杉歩道」(左)へと入っていく。

 だがここが間違えやすい。左前方に「森林鉄道遺跡」(右)が展示されているためそちらへ目が移り、森林鉄道を見た後そのまま真っ直ぐ進むと大川端キャンプ場跡を通って踊子歩道を歩く事になってしまう。

 この森林鉄道は、天城山中を走っていたものではなく、木曽森林鉄道をここに移して展示したのだという。紛らわしいね~
 


 二本杉峠への案内表示が無いのでちょっと不安を感じながら二本杉歩道に入り、欄干の無い橋を渡ると「二本杉(旧天城峠)」(左)と記された案内表示が見える。ひとまずほっとするところだ。

 この先しばらくは林道を登っていくのだが、途中にも二本杉(旧天城峠と記された案内板がある。

 ほどなく「二本杉峠(旧天城峠)(左)と記された二本杉峠登山道入り口の表示があり、林道脇に細い砂利道があるが、これが旧下田街道。
真っ直ぐ進むと橋を渡るが、こちらは違う。


 二本杉峠までかれこれ30分ほどだがこれが結構キツイ登り。
踏み跡がしっかりしており、途中に「行き先案内板」(左)もあるので迷うことは無い。


 もう少し、もう少しと自分を励ましながら細い山道を登っていき、「樹間に東屋」(右)が見えた時はホットしたものだ。
 江戸時代の旅人も辛い思いをしてこの峠へ登ってきたのだろう。


 ついに二本杉峠(旧天城峠)に到着。 ここは4方向に分かれる峠の追分。次のように行き先が表示されている。
  ←天城遊々の森  宗太郎園地→ 
   ←旧天城トンネル 仁科峠→


 東屋の後ろにある2本の大木が「二本杉」(右)。
旧下田街道は二本杉の脇を通って宗太郎園地に向かって下っていくのだが、ここで大問題が。
 [ 遊歩道流出のためこの先 通行禁止 ] と看板が出ている。

ここまで苦労して登ってきたのに引き返すことは間尺に合わない。思案のしどころだが、先へ進むことに決定。

 歩き始めて数分、左手に宝暦11年(1761)建立の「六趣能化尊」(左)が見える。炭焼きに関係した人達が建立したのだという。

 この先は九十九折の下り坂が続くが、石がゴロゴロした狭い道の右側は谷底。慎重に歩かねば。

 その先しばらく歩くと「可愛らしい地蔵」(右)が1体。江戸時代からずっと旅人の安全を見守ってきたのだろう。


 九十九折の下り坂はまだまだ続くが、途中に「峠茶屋跡」(左)がある。二本杉峠の新道が完成した年に開業したのだそうだ。難所を登ってきた旅人には有りがたい茶屋だったことだろう。

  下り始めて30分、広い道が見えたのでやれやれホットした。流出したという遊歩道も大したことなく良かった。と思ったらこれが大間違い。

 見えたのは「二本杉林道」(右)で、旧下田街道は林道を少し下った先から、谷に降りてさらに沢沿いを下らなければならなかったのだ。


 林道脇に「宗太郎園地⇒」(左)と案内表示が出ている。ここを下る道が二本杉歩道のようだが、その後ろに「土砂流出のため通行止」とある。ここまで下ってきて戻るわけにはいかない。

 行き先表示の先からすでに「道なき道」(右)。不安が過るが地図では沢沿いの道なので、沢から離れなければ迷うことはなさそうだ。

 沢まで下ると案の定、道が無くなって数十センチの大石がゴロゴロ。慎重に石の上を渡っていくのだが、 それでも所々に旧道の踏み跡が残っているのでなんとか迷わず下ることができる。


 水の流れが無い沢を右へ行ったり左へ行ったりしながら15分ほど下ると「橋」(左)が見えたが、先の半分は落下している。幸い水の流れが無いので川底を通って向こう岸へ。


 その先は「巾2mほどの林道」(右)が出来ており、やっとホットしたのだが、ここも大石がゴロゴロ。あちらこちらで倒木が道を塞いでおり、まるで障害物競走のようだ。


 二本杉林道から かれこれ30分ほど下ると擬木の橋が見えてきた。この先は宗太郎園地、そして踊子歩道に合流するはず。

 橋を渡ると人影が見える。車も止まっている。休憩舎もある。正真正銘ほっとした瞬間であった。
 
 踊子歩道に入った目の前の巨木の下に可愛らしい「石仏」(右)が。痛みが激しいためいつ頃の建立か不明だが、長い間、二本杉峠に向かう旅人の安全を見守ってきたのだろう。


 この先は踊子歩道を歩くのだが、この辺りは「宗太郎杉林道」(左)と名付けられた杉並木。明治10年(1877)に植えられた「宗太郎人工杉学術参考保護林」で、この地を開発した人の名前が付けられている。

 しばらくの間は木漏れ日と吹き抜ける風、そして平らな道がなんと気持ちが良いことか。
 もう少し下ると天城の名所「河津七滝」が待っている。

コメント:二本杉峠から宗太郎園地へ下る旧道は、かなり荒れているので
     あまりお勧めできない。

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