下田街道の表紙に戻る

 梨本村                                街道地図
梨本村は天城峠と小鍋峠に挟まれた山間の小さな村であったが人馬継立が置かれたことから
旅籠などもでき 天城峠越え・小鍋峠越えの旅人の宿泊・休憩地でもあった。
もう少し下った河津川沿いの湯ケ野温泉はこれまで歩いてきた踊子歩道の終点地。川を挟んだ
向こう側に 「伊豆の踊子」 の舞台となった福田屋旅館が当時のままのたたずまいを見せてくれる。
三島宿原木村大仁村湯川橋から湯ヶ島まで湯ヶ島村天城峠越え旧天城トンネル梨本村芽原野村箕作村下田村
 平成26年9月21日

河津七滝の途中から旧道があるはずだが場所がはっきりしない。とりあえず初景滝まで戻り階段を上ってそれらしき道があった所まで戻ることに。

階段脇に「立入禁止」の看板が下がった道がある。地図には無い道だが「旧道に復帰できるかもしれない」(左)。

ということで左に入り「水路沿いの道を下っていく」(右)と民家が見え始めてきた。なんとかなりそう。

民家の手前に石仏と石塔があり傍らの標柱に「亡牛塔」(左)と記されている。静岡県歴史の道・下田街道によると宝暦13年(1763)に無くなった牛の霊を弔って建てたものだそうだ。

どうやら旧道に復帰できたようだ。民家の間を通って数分、右下に河津町営駐車場を見ながら進むと三叉路の真ん中に「石塔群」(右)が。

それぞれの建立年代は不明だが牛頭大王・道標・廻国塔・大日如来・石仏がずらっと並んでいる。ここは旧下田街道と荻入集落方向との分岐点。


石塔群の先 数分で県道に合流するが、その先に見えたのは国道414号の巨大な「ループ橋」(左)。45mの高低差をグルグル回りながら下ってくるのだという。

旧下田街道はループ橋の下を通った先で「右へ下っていく」(右)。
分岐点に踊子歩道の案内板があり湯ケ野まで40分とある。今日の目的地はもうすぐだ。


旧道へ入って数分、街道際の石垣の上に「石祠」(左)が二つ並んでいる。 地の神様の類と思われるが2基が寄り添っているところがなんとも微笑ましい。

その先の「石塔群」(右)は各所に散在していた石塔を道路工事などでここへ集めたものらしいが、納経供養塔や大日如来などいずれも寛政年代(1789~)から文政年代(1818~)にかけて建立されたもの。

石塔群から数分、小さな祠が見えるがこの中に収められている宝篋印塔は「関戸吉信の墓」(左)。

下田の深根城2代目城主であった吉信は北条早雲の軍勢に攻められ この地まで逃れて自刃。 里人が武将の死を悼んで建立したという。室町時代末期の話。

その先に 水草の墓 があるというが見つからず地元の人に聞くと民家と民家の間の奥まった所にある大木の下の石塔が「水草の墓」(右)だという。近づくことができないがそれらしい石塔が。


ほどなく川横区の集落。緩い坂道を上っていると「旧天城街道梨本宿てつぽう(左)と記された門柱が。ここが宿場であったことを知る唯一の手がかりだ。ちなみに てっぽう は民宿の屋号。

旧道はてっぽうの先で国道414号に合流するが その手前に「道標」(右)が1本。「左湯ヶ島近道」と刻まれている。近道といっても天城峠を越えなければならないのだがな~

国道に合流して4~5分、右に下る道が旧道だが左側は彼方までコンクリートの擁壁。まるで刑務所の横を歩いているようだ。

たまたま居合わせた地元の人によると伊豆大島近海地震(昭和53年(1978))で国道が崩落したためコンクリートで固めてしまったのだとか。風情台無し。しかし旧道を残してくれただけでも有り難い。

4~5分歩くと浜道(湯ケ野を経て東海岸へ向かう道)と鋭角的に交わるが この場所に嘉永7年(1854)建立の「道標」(右)が1本。刻まれている行き先は「右三嶋 左下田道」。

下田街道は道標を回り込むように右へ曲がっていくのだが、ちょっと寄り道を。向かった先は国道の向う側にある「慈眼院」(左)。

安政4年(1857)、下田を出発したタウンゼント・ハリス一行300人が最初に泊まった場所が慈眼院であった。ハリスが使った椅子などが残されているそうだ。

山門脇に「ハリス公使旧舊蹟碑」(右)が建てられているが説明板の類が無いためうっかりすると見落としてしまうかもしれない。

道標まで戻ったら すぐ先の河津川に架かる橋を渡って左へ曲がり、その先の大鍋川に架かる橋を渡る道が旧下田街道。

山裾の道を歩いていると崖の下に「石塔が3基」(左)並んでいる。手前の石塔は文化7年(1810)建立の南無地蔵大菩薩、真ん中は文化14年(1817)の徳本大士、左は句碑ということだが文字は読めず。

すぐ先に見えたのは「馬頭観音」(右)。
山裾の薄暗い道はなんとなく背中がゾクっとする。やがて小鍋集落にはいるのでちょっと寄り道を。

向かった先は「小鍋神社」(左下)。この神社には伊豆に流された文覚上人と源氏再興にまつわる源頼朝の話が伝わっている。

その昔、文覚上人が源頼朝に父義朝の髑髏(どくろ)を見せ源氏再興を促し 義朝の髑髏をこの地に埋め弔ったという。

後に頼朝は父の霊を弔うため20人ほどの家来を連れてこの地を訪れたのであった。その時の接待料理を作る 大鍋・小鍋が集落から提供されたが それが今の集落名に。

小鍋神社を出て道なりに坂を下り橋を渡ると「下田街道」(右)の案内表示が。何気ないことだがホッとする瞬間である。


数分歩いたところに設置されていたのは「小鍋峠案内板」(左)。
「天城以南最大の難所」と記されている峠を越えて下田に向かうわけだが その前に寄り道を。

 案内板の前の道を下っていくと「踊子歩道終点」(右)の表示が。
右へ下る川沿いの遊歩道の先は湯ケ野温泉だが踊子歩道はそこで終わり。

 遊歩道を下ると湯ケ野橋の向うに踊子と旅をした若き川端康成が泊まった「福田屋旅館」(左)が見える。明治12年(1879)創業時の建物が正面の2階屋で、川端が泊まったのはこの2階。
橋を渡り左に曲がると玄関前に伊豆の踊子が

右へ曲がると「川端康成文学碑」(右)に伊豆の踊子の一節が。
湯ケ野までは河津川の渓谷に沿うて三里半あまりの下りだった。 峠を越えてからは、山や空の色まで南国らしく感じられた。・・・・

ついに踊子歩道も終点。しかし下田街道はまだまだ続く。次は小鍋峠入口まで戻り峠越えだ。

旧天城トンネル越えに戻る    次の継立地芽原野村    表紙に戻る