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芽原野村                                街道地図
天城峠を越えてきた旅人はホッとする間もなく小鍋峠越えを強いられる。この峠を越えれば芽原野村、
箕作(みつくり)村を通ってほどなく下田だ。芽原野村はかつては継立場であったが今は国道が通ってしまい
往時の面影は全く見らない。「いつの間にか通り過ぎてしまった」そんな芽原野であった。
三島宿原木村大仁村湯川橋から湯ヶ島まで湯ヶ島村天城峠越え旧天城トンネル梨本村芽原野村箕作村下田村

 平成26年10月8日

小鍋集落を抜け橋を渡って左に曲がると「小鍋峠案内板」(左)が建てられている。峠まで1.5kmと記されているのでそれほどキツイ峠越えではなさそうだ。

案内板の右手、崖の中に埋め込まれたように「石仏」(右)が2体。道標を兼ねた石仏なのだが全体に苔むしている為かろうじて ミち が読めるが他の文字は無理だ。

案内板のすぐ先が 「小鍋峠入口」(左) で右側の坂道を上っていく。 左の下り坂は湯ケ野温泉方面で、この先に伊豆の踊子の舞台となった福田屋旅館がある。

小鍋峠は昭和初期(1930頃)までは盛んに利用されていたが いつしか荒れ放題の旧道に。近年、下田街道推進協議会や地元の人達によって整備が行われ安心して歩けるハイキングコースとなった。

入り口から4~5分、集落を抜けるとさっそく「杉林の山道」(右)に。

登り始めから結構キツイ急坂が続く。 十数分登ると「地蔵尊」(左)が一体。頭が無くなり代わりに丸石が置いてあるが この地蔵様は文政10年(1827)の建立。

その先に元文2年(1737)に建てれらた「道標」(右)が。古い割には刻まれている文字がしっかりと読める。正面に「従是下田道」、側面に「従是普門院道」と。普門院への道は今は通行禁止だ。

普門院は鎌倉公方足利持氏の開基とされる寺院で往時は末寺49寺を有する大寺院であった。

きつかった上り坂も道標の辺りまでで、その先は比較的緩い上り坂。30分ほどで「小鍋峠頂上」(左)に到着。頂上といっても切通しのような場所で ちょっと薄暗く視界は全く悪い。

歌碑と地蔵尊が2体。歌碑は半分欠けており歌を詠むことは難しい。

地蔵尊の先に「小鍋峠標柱と歌碑」(左)があるが、こちらの歌碑も細い線刻のため判読できない。

早々に峠から下ることにしたが下り道は斜面の途中に造られた細い道。注意しながら歩かねば。

ほどなく「林道」(右)に合流したのだが広い平らな道がなんと歩きやすいことか。

林道を下りコンクリート舗装された道に入ると民家がぽつぽつ現れ やがて八木山の集落。

八木山の集落で丁字路を左に曲がり4~5分、道際に「賽の神」(左)の祠が見える。集落に悪霊が入るのを防ぐための神様だ。傍らに仏像の頭が転がっているのが気になるが。

すぐ先の小屋の中に祀られているのは「廻国塔と地蔵尊」(右)。
諸国を巡る六十六部のために立てられた供養塔で万延元年(1860)の建立。地蔵尊は安政3年(1856)の建立。

北の沢集落に入る手前に「道標」(左)が1基。安政2年(1855)に建てられたもので下田側に回ってみると、ちょっと読みずらいが刻まれている文字は「右下川津浦 左三しま  道」。

集落の中ほどまで下って来ると「楠木の大木」(右)が。

ハリスが眺めた楠木の孫木と云われているが 地元の人の話では「あれはハリスが見た木の子どもの木だ」。 「親木は伐り倒されたが山神社の脇に切り株が残っているかもしれない」という。

 

ということで少し戻って法雲寺参道から右に折れて「山神社」(左)へハリスが眺めた楠木の切り株を見にいくことに。残念ながら切り株を探すことはできなかった。

ついでに法雲寺にも寄り道を。 無住の寺であるが後ろの高台にあったのは「如意輪観音堂」(右)。
伊豆に流罪となった文覚上人と源頼朝によって開かれた伊豆国横道三十三観音霊場の二十二番札所。観音霊場巡りのマニアが時折り訪れるという。

法雲寺を出て坂道を下っていくと国道414号に合流するが合流点に「法雲寺道標」(左)と云われる道標が1基。 全体に苔むしており昭和7年(1932)3月の文字以外は読み取ることができない。


「国道414号」(右)に入ると小さな集落をいくつか通り過ぎるが どの辺りに継立場があったのかが分からない。 芽原野集会所辺りではないかと勝手に判断して次の箕作(みつくり)村へ向かうことに。


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