*** 義のかたち ***


 黄初二年、張遼は皇帝に呼ばれ、久しぶりに洛陽の地を訪れた。
 何事かと思い急ぎ馳せ参じると、合肥の戦いのことを聞きたいという。望まれるまま昔話をぽつぽつしたところ、皇帝は大いに感嘆し、張遼に従って呉を破った者たちを近衛兵に取り立てるのみならず、都に張遼の邸宅やら彼の母のための御殿やらを造るとまで告げた。ありがたい話ではあるが、なぜという気がしなくもない。合肥の戦いなど、もうずいぶん前のことである。それに彼はすでに先代から十分恩賞を与えられていた。
 不思議に思いながらも厚く礼を述べて辞去した張遼は、帰り道に廊下で賈詡に出くわした。
「お久しゅう存じます」
 賈詡は軍事最高責任者たる太尉であったが、深々と張遼に向かって拝礼した。張遼も負けじと丁寧に挨拶を返した。
 この男は魏の参謀たちのなかでもとりわけ切れ者だったが、
「どうもやつの手口は陰険で好かぬ」
「付き合いの悪い男だ」
など、同僚間での評判は芳しくない。かつて董卓およびその残党の軍に従っていたことや、張繍のもとでさんざんに曹操軍を撃退したということも、良い印象を与えないのかもしれない。
 流浪の策士であったという点では張遼と通じるところがあるが、彼が張遼に対してひとかたならぬ敬意を払う理由は、それだけではなかった。どうやら、いきなり思い出したかのような今回の皇帝の下賜の数々についても、高官となった彼の口ぞえによる影響が大きいらしい。そう張遼は考えた。
「この洛陽で、再び同じ旗のもとお会いすることになろうとは。縁は異なものでございますな」
 張遼の推測を肯定するかのように、賈詡は微笑んだ。
「平生は遥か南方の前線にて呉を牽制しておられる我が恩人、都勤めの身ではおいそれとお訪ねすることもできません。せめて今日は、拙宅にお越し願いたく存じます」


 その前日、賈詡の家族は、明日客人を連れ帰るからもてなしの用意をしておくようにと主人に言われ、ひどく驚いた。彼はつまらぬ陰謀に巻き込まれまいとして、同僚たちと私的な付き合いをほとんどせず、子どもたちの縁談についても貴族の出身者は絶対に選ばずにきた。その賈詡が人を家に招くというのである。
 しかし客人の顔を見て、賈詡の家族たちもなるほどと納得した。
 それはかつてこの洛陽で賈詡の長男を救った男であった。
 何進が殺され、董卓が実権を握った頃のことである。賈詡は董卓の娘婿に献策して日々暮らしていたが、ある日家族が目を離した隙に、子どもがひとりで洛陽城外に出てしまった。城外は治安が悪い。きちんとした身なりの子どもがひとり歩けば、さらわれるか殺されるのは時間の問題である。案の定子どもがごろつきどもに囲まれたそのとき、ちょうど通り合わせたのが張遼だった。彼は当時まだ二十代の若者だったが、洛陽警備の任を示す制服を着用していたことが幸いして、けが人を出さず子どもを助けることに成功した。
 賈詡の屋敷では大騒ぎになっていた。そこへ張遼が子どもを送り届けると、賈詡は血相を変えて子どもを叱り飛ばした。どうにも噂に聞く沈着冷静な策士らしくない。
 戸惑う張遼に向かって、賈詡はいきなり跪礼した。高貴な人に接するがごとく応対されて、張遼はすっかり面食らった。


 あれから数十年。
 立派になった賈詡の長男から挨拶を受けて、張遼は感慨深げに礼を返した。
 賈詡と張遼は、そこはかとなく異国情緒が漂う涼州趣味の落ち着いた室内で、さしつさされつゆったりと呑んだ。
「いや、あのときは正直慌て申しました」
 昔日の件について張遼が白状すると、賈詡は笑いながら言った。
「どれだけ礼を尽くそうとも、とても足りるものではありません。わたしにとって最も大切なものは家族です。わたしは常に家族を守ることだけを考え、出処進退を定めて参りました」
 賈詡はかつて氐族に捕らわれたとき、同行の数十人を犠牲にしても己だけは助かるよう画策したことがある。それは彼の帰りを待つ家族のためだった。
 身を寄せた先の主人が、歓待しつつも内心彼の頭脳を恐れていると察し、家族と別れてひとり張繍のもとへ出向したこともある。そうすれば、有力者とつながりを持ちたがっていたその主人が、残された彼の家族を大切に扱うと知っていたからだった。
 曹丕の帝位簒奪に協力し漢朝滅亡の一端を担ったのも、年老いた己の亡き後、家族が安泰に暮らせるようにするためである。
「誰に仕えようと、また人がわたしを何と言おうと、そのようなことはどうでもよろしいのです。たとえ国家や主君であろうとも、家族のためなら惜しむことはございません」
 給仕していた賈詡の家族は張遼が怒って主人を斬るのではないかと恐れた。しかし武人は少しの間沈黙してから、
「それもひとつの義でございましょうな」
とまじめくさった顔でぽつりと言っただけだった。


 乱世の習いとはいえ、主君を頻繁に替えることを快く思わない者は多い。
 張遼は丁原に見出され、何進のもとで働き、董卓の配下となり、呂布に従い、曹操に投降した。そんな彼の経歴に眉をひそめる者は少なからずいた。ましてや転身するたびにより大きな功績を打ち立てたとあれば、なおさらである。
 合肥を共に守った楽進や李典もまた、張遼に対して非友好的だった。楽進は単に張遼のことが気に食わないだけだったのだろうが、李典は儒学を愛好していたから、張遼を節操のない男と見ていた可能性がある。
 張遼は己の経歴について弁明したことがない。賈詡ほどに徹底してはいなかったが、わずらわしいので彼も同僚たちに歩み寄ろうとせずにきた。彼は己が理解されることはないとどこかで割り切っていた。
 だが確固たる信念は持ち合わせている。
 武人として生きる限り、人の寿命を己の手で定めてしまうのは致し方ないが、己の死に時を己で定めるのはおこがましい、と張遼は思う。幾度かの分岐点において、天命は常に彼に生きる道を示した。だから彼はそれに従ってきたのである。
(まだ死んではならぬ、ということか)
 時に死より辛い生もあったが、彼は謙虚にそのすべてを受け容れた。
 張遼は天に対して誠実であり続けたのである。
「それもひとつの義でございましょうな」
 賈詡に話したら、そうやり返されたかもしれない。


 賈詡の屋敷から出てきた張遼がとりとめもないことを考えながら洛陽の宿泊先に向かい歩いていると、道で息子に出くわした。
「父上」
「おお、虎か」
「楽綝どのや李禎どのと久々に語らって参りました。父上はどちらに?」
「太尉どののお招きにあずかってな。……虎よ、そなた楽進どのや李典どののご子息と仲が良いのか?」
「ええ。両将軍がご存命の頃から、両家のお世話になっておりますよ」
 張虎はそう返事すると、やや間をおいてから続けた。
「父上は両将軍と親しくしてはおられなかったでしょう。ですが父上は両将軍を非常にほめておられましたね」
 張遼は対外的な人付き合いをしない分、家族を話し相手にした。自然と張虎に対しては、同僚の人物評価などについて一席ぶつことが多くなる。何かの折に張遼は楽進について「肝の据わった男」と論じ、李典については「思慮深く謙虚な男」と評した。そして息子に、将たる者ああでなければならぬと教え諭したのだった。
「ふとしたことからその話を楽綝どのと李禎どのにいたしましたところ、楽進将軍も李典将軍も、ご家庭では父上のことを高く評価しておられたのだという話を聞きました」
 楽進は張遼のことを「どうも他人行儀でいけすかないが、信頼できる男ではある」と語り、李典は「儒の観点からは許しがたい部分もあるが、あの武勇と生きざまには頭が下がる」と言った。そして奇しくも二人はそれぞれの息子に、将たる者ああでなければならぬと説教したのだった。
「そのうち父上について両将軍と直接お話しする機会もできました」
「まさかそなた、わしの申したことを一字一句お二方にお伝えしたのではなかろうな」
「いたしました。両将軍は驚いておられましたが、嬉しそうでしたよ」
 思い返せば合肥防衛戦の際、曹操の指示に従い奇襲に出ようとした張遼が、楽進・李典との足並みのそろわないことを懸念したとき、李典が
「我らは私事を公に持ち込むようなことはいたしませぬ」
と憤った。張遼は額面通り受け取って出陣し成功を収めたのだが、もしかしたら彼の言葉には
(何を水くさい)
という好意的な怒りが込められていたのかもしれない。
 他にも張遼は二人と組んで順調に仕事を進めたことがいくつもあった。それは役目だから個人的感情を抜きにして二人が協力してくれるのだと彼は思っていたが、息子の話を聞くと、どうもそういうわけではなさそうである。
「それならそうとはっきり言ってくださってもよさそうなものだったが」
 楽進も李典もすでにこの世の人ではない。張遼は二人の生前に心を通わせられなかったことを残念に思った。
「今さら恥ずかしいからと、両将軍に口止めされておりました」
 それを聞いて張遼は思わず笑い出しそうになったが、あえて難しい顔をして厳かに息子をたしなめた。
「男たるもの、一度した約束は守らねばならぬぞ」
「申し訳ございません」
 張虎は口でこそわびたが、その表情はにこやかだった。


 そんなことがあってから、張遼は軍務の合間をぬって同僚たちとほんの少し親しくしてみるようになった。天が張遼に死を許すまで一年余りしかなかったが、どうやら彼の義が賈詡の義ほど他人にわかりにくいものではなかったらしいと察するのには、十分な時間だった。彼は思いのほか多数の友人を得た後、赴任先の江都でその生涯を終えた。


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