*** 極み ***
――我が死に様を見よ!
ひとつ、またひとつ。
名も知れぬ敵兵たちの命が、その砕け散る瞬間に刃となり、次々と武人の身体に見えない傷を刻んでいく。
得物をまじえれば決して触れることすらかなうはずのないこの武人を、雑兵たる彼らが、避けがたい気迫で圧してやまない。
既に戦いの勝敗は決していた。
だが逃げ時を逸し追い詰められた敵兵たちは降服の勧めに耳を貸さず、沔水へと身を投げてゆく。
彼らの動きはごく自然で、迷いがない。
依然として己より遥か彼方に存在する武の極みというものが、あの雑兵たちの掌中にはあるのではないか。武人はそんなことをぼんやりと考えながら、以前にも似たような光景を目にして、同じように一歩も動けなかったことを思い出した。
建安二十三(218)年、劉備が陽平関に陣を布いた時のことだ。
劉備軍の手の者達は漢中の要衝である馬鳴閣街道を絶ち切り、曹操軍の分断を図ったが、夏侯淵と共に陽平関を守っていた徐晃は別軍としてこれを征討し、街道を確保した。
その際、街道で破られた者達は、降ることを潔しとせず、次々と山谷に身を投げたのだった。
――我が死に様を見よ!
一つ一つの駒が、そう音声を上げているかのようだった。
徐晃はこの功により曹操の激賞を受けたものの、しばらくはまんじりともできなかった。
そして翌建安二十四(219)年。
関羽軍に包囲された樊と襄陽の救援に向かった徐晃は、情報戦を制して関羽軍を翻弄し、その浮き足立っていたところを突いて壊走せしめた。ほぼ水没していた樊の曹仁も徐晃の到着に合わせて内側からの包囲網突破に出、成功している。退却する関羽軍への追撃の手を緩めず、今、徐晃はこうして沔水を望んでいたのだった。
――我が死に様を見よ!
徐晃は戦慄を覚えた。
武人である。己とて死を覚悟せぬことはない。
しかし目の前の雑兵たちには、何か徐晃の知り得ぬ力に突き動かされているような、そんな印象を覚えて仕方ない。
それは武を極めた者のみが手にすることのできる力なのではなかろうか。
そう思った瞬間、戦勝の大手柄は徐晃の心中で一握の砂と化した。
召還された張遼が後れて曹操のいる摩陂へやって来たのは、既に徐晃が関羽を破ってからのことだった。
手柄を立てそこなったものの、個人的には何かと係わりのあった関羽と刃を交えずに済んでほっとした思いもなくはない。もっともこの男、実際にぶつかることとなった際には私情などわずかたりとも挟むことをしない強さは備えているのだが。
今回大功を立てた徐晃について、その関羽と互いに敬愛し合っていたという噂を、張遼は耳にしていた。心的な親睦の深さは、関羽と我が身とのそれの比ではなかったろう。無論徐晃もまた公私の別は弁えている男ではあるが、しかし木石ではない。
ふむ、と張遼は顎鬚を軽くなでながら高台に立った。
摩陂に駐屯している軍勢はかなりの数にのぼっている。見下ろすと、危機を脱した戦勝後ということもありどこの所属の者達もかなりくつろいでいる中で、今なお几帳面に整然としている一群がある。徐晃の兵営だ。張遼は感嘆を覚えた。
徐晃と張遼が話をすることは滅多にない。普段はそれぞれの任地を守っているし、たまに式典の折、都などで顔を合わせても、何かにつけ控えめで黙して語らない徐晃と、同僚とは一線を画した位置に身をおきたがる張遼とでは、接点が生じないのである。
しかしこの日、珍しく張遼は徐晃を訪ねてみる気になった。
――わしの目指してきた武とは、武の極みとは、一体何なのだ?
張遼の来訪が告げられた時、徐晃は月明かりの下でひとり坐して思索していた。
摩陂へ凱旋して曹操のねぎらいを受けても、やはり心は晴れない。
折り良く、曹操軍屈指の武人がやって来たというので、徐晃は黙して礼し座を勧めると、静かに口を開いた。
「それがし負け申しました」
対する張遼は、その言葉の真意を測りかね、徐晃の次の文句を待った。
「死にゆく名もなき雑兵どもに、心意気で負け申しました」
「……」
張遼は黙したままでいる。
張遼には、また徐晃にもだが、降ったという経緯がある。徐晃の場合は吸収された形だが、張遼の方は投降である。徐晃は不適切な相手に不適切な発言をしたやもしれぬと思い至り、感情的になっている己を恥じて正直に言った。
「失礼つかまつりました。ただそれがしには近づく術すら覚束なき武の極みを、かの雑兵らに見た思いがいたし、かようなことを申しました。決して他意はございませぬ」
「存じてござる」
張遼もまた、己の生来の仏頂面がこの礼儀正しい男へいらぬ気遣いをさせたことに気づき、いささか気の毒に思って言葉を継いだ。
「それがし無骨者ゆえ心なるものはわかりかね申すが、貴公の生き様には頭の垂れる思いをいたす者が多いと聞き申す」
本音を言えば、張遼本人も色々感じ入るところをこの意気消沈した様子の男に対し持っていたのだが、妙に馴れ合うのも互いに不本意であろうと考え、敢えて一歩退くような物言いをした。
「それがしの生き様、でございますか」
徐晃は奇妙な顔をした。不名誉なことは深く恥じるが、名誉なことにはとんと無頓着な男なのである。
「それがしは遠く耳にしたのみにござるが、その昔、天子をお守りいたすよう、貴公が時の主に進言したと聞き申す」
「楊将軍のことでございますか」
言われて、徐晃は久々に楊奉の名を口にした。
もう三十年近く前のことである。
董卓が呂布に弑されてから数十日の後には、呂布もまた董卓の配下であった李に敗北し、張遼は呂布に従ってその際に当時の都であった長安を離れている。
徐晃の先の主であった楊奉はもともと李の下にいたが、李暗殺を謀って失敗し、そのまま反逆した。折りしも、董卓亡き後に呂布を追い出して権力を握った李と郭汜の横暴に耐えかね、この二人の不和に乗じて帝は長安を脱出した。
徐晃は楊奉に、帝をかくまうよう進言し容れられた。
楊奉は一度、帝を取り戻そうとした郭汜を破ったが、和解した李と郭汜が再度押し寄せてきた時には敗北した。帝の百官は蹂躙され、輜重官女はほしいままの掠奪を受けた。さらに蝗の被害も加わって、極度の飢餓と疲弊の中それでもなお敗軍の一行は帝を奉じて逃走を続け、安邑、ついで洛陽に入ったのだった。
結局、曹操が帝の庇護を申し出、許に都を遷した際、楊奉も徐晃ともどもそちらに付き従った。楊奉はその後曹操のやり方に反発して出奔し、徐晃はそこで先の主と袂を分かつ形になった。楊奉は方々を荒らし回った末劉備に殺害された。
その劉備の義弟である関羽を敗走せしめたと思い出し、徐晃は小さくため息をついた。
「縁とは不可思議なものでございますな。我が君の御許に参ってより、楊将軍を弔う思いで戦う日など、正直申してございませんでしたが……」
徐晃は途中で口をつぐみ、遠い日を回顧してわずかに口元をほころばせた。
張遼はまた黙している。この辺りの徐晃の心境ならば推し量ることは難しくない。張遼自身、丁原、董卓、呂布といった主たちを乗り越えて、ここにいる。
徐晃も張遼も、恩義の心に薄い人間というわけではない。ただ、今の主の器があまりに大きすぎ、平素は過去の主のことなど思い出すいとまもないだけのことだ。
しかしやはり今の主と出会うまでには、今より遥かに未熟だった己が、同じくさほど卓越した先見の明を持つわけでもない主と共に、右往左往して必死に生き抜いてきた記憶がある。
徐晃にとって主とは、また信念とは、身を挺して守るべきものではなく、共に生き延びることで守るべきものである。
翻るに、死をもって徐晃へ刃を浴びせてきたあの者たちは、主のために死ぬことを、己の死に甲斐としたのであろう。徐晃には生涯かけてもし得ぬ発想なだけに、正体不明の恐怖を覚えたのも無理はない。
なるほど、それもひとつの武の極みかもしれない。
だが。
極みとは、たったひとつのものなのか?
徐晃は、確認するかのように張遼へ問うた。
「将軍、武とはいかなるものでございましょう」
「それがしには、生きる術でござる」
張遼の回答は簡素で明朗なものだった。
そしてそれは、対する武人にとっても必要十分な回答であったらしい。
徐晃はうなずき、この男らしい慎重な口調で、しかしはっきりと告げた。
「かたじけのうございます。次は負け申しませぬ」
曹操が没して曹丕の世を迎え、上庸を巡りまたも劉備軍と衝突することになった時、そして孫呉の諸葛瑾と襄陽にて対する折にも、徐晃の極めるべき武のかたちは揺るぎなく定まっていた。
――死ぬまでは、生きて、生きて、生き抜くより他ない。
「我が生き様を見よ!」
徐晃は己にまとわりつく命をなぎ払いながら、腹の底から気を吐いた。
「我が生き様を見よ! 我が生き様を見よ! 我が、生き様を、見よっ!」
太和元(227)年、徐晃は病を得て逝去した。
命の散り際を刃として振りかざすことのない静かな死ではあったが、彼の生き様を偲び付されたのは、壮侯の諡だった。