*** 洛神賦異説 ***


「我が君の邪魔はさせません!」
 戦場の敵に向かい毅然として言い放つ甄姫を高台の本陣から見るたび、曹丕は心のなかで何度となく問いかけた言葉を、飽きることなく無言で彼女に投げかける。
(そなたの『我が君』とは一体誰のことなのだ? わしか、袁煕か、それとも他の誰かか……?)
 甄姫の美しさは完璧である。夫に献身的に尽くし、姑によく仕え、世継ぎの男子も産んだから、妻としても申し分ないと言えよう。
 しかし曹丕は鬱々として楽しまない。妻より格段に劣る婦人たちとふざけているほうが、よほど心安らぐ。妻から微笑みを向けられるたび、彼は奇妙な空虚感を覚えるのだ。

 戦場では、先鋒として舞う甄姫に続き、張郃が華麗に躍りこんでいた。

 妻が美しすぎるのがいけないのかもしれない。
 妻に見惚れないのはあの男くらいのものだろう、と曹丕は思う。
 彼はもう何年も妻に対して冷淡な態度を取りつづけていたが、戦場で彼女と力を合わせて戦う諸将の姿を遠目に見やると、言い得ぬ嫉妬の情に身を焦がされそうになった。
 だから軍議の席で発言を求められると、曹丕は甄姫を張郃と一緒に行動させるよう主張した。諸将も曹丕の考えを察してはいたが、作戦上張郃は前線で活躍することが多かったから、甄姫を同行させるのに彼らはいつも躊躇した。それでも甄姫が承諾するので結局彼女を危険な場所へ送りこむことになる。
 そして佳人は周囲の心配をよそに華々しい手柄をひっさげて戻ってくるのだった。


 乱戦中背後に隙ができた甄姫を狙って、敵兵が攻撃をしかけてきた。間髪入れず張郃の爪がなぎ払う。甄姫は軽く振りかえって微笑んだ。張郃も小さく笑った。
「世の中には美に対して敬意を払わない輩が多すぎます。困ったものですね」
「わたくしは美しいですかしら?」
「もちろんです」
 二人は戦う手を休めずに会話した。
「けれど、あなたのほうがお美しいのですわね」
「その通り」


 張郃と甄姫の付き合いは長い。
 袁紹のもとへ身を寄せてすぐ、張郃は名門官吏の家柄出身である甄姫の兄と知り合った。彼は気さくな性質で、教養があるとはいえ一介の武人に過ぎない張郃と、実に親しくした。彼は張郃を自宅に招き、家族全員に挨拶させた。
「お美しい方ですね」
 少女甄姫は張郃を評してそう言った。まだ彼が一般的な男性同様にふるまっていたときのことである。確かに彼は容姿端麗ではあったが、いささか面食らった。
「お嬢さんにはかないませんよ」
 それでも張郃は笑って言った。実際、少女は気高い美しさに満ちていた。
「あなたのほうがお美しいですわ。きっと世界で一番」
 張郃は甄姫のほうが美しいと言い張ったが、少女は聞く耳をもたない。
「仕方ありませんね。では僅差でお嬢さんを二番ということにしておきましょう」
 ついに張郃は折れた。二人は目を見交わして笑った。


 ほどなく甄姫の兄が病を得て亡くなった。
 しばらくして甄姫の縁談が決まった。相手は袁紹の次男である袁煕で、張郃にとっては主君筋にあたる。張郃はこれを機に甄家への出入りを遠慮することにした。甄姫もすでに察していたらしく、驚きはしなかった。
 ただ別れ際、穏やかに彼女は言った。
「兄が生きていたら、きっとこの縁談をお断りしたと思いますの。兄は時折わたくしに尋ねましたわ。あなたをどう思うかって。わたくしが何と答えたか、お聞きになりますか」
「やめておきます」
「……そうですわね。そのほうが良いのでしょう」
 甄姫は静かに微笑んだ。
 少女はいつの間にか、花開くような芳しい婦人となっていた。


 甄姫が袁煕に嫁いだのとほぼ同時期に、張郃は美と自己の崇拝者となった。彼は妻帯しないことを公言し、家のため数人の養子を迎えた。
「わたしは自分より美しくない人と暮らしたいとは思いません」


 その後、勝利間違いなしと思われていた官渡の戦いで袁紹軍はまさかの大敗を喫し、張郃はやむなく曹操軍に降った。
 袁紹の本拠地であった鄴は占拠された。そこには甄姫もいた。
 甄姫の美しさは広く知れ渡っていたので、曹丕は彼女を見つけるや、すぐ父親に頼んで自分の妻とした。甄姫の先夫となった袁煕は紆余曲折の末、逃れた先で北方異民族の手にかかり死んだ。


 甄姫と張郃が次に再会した場所は戦場であった。
「わたくしも戦いたく存じます」
 舅の曹操は甄姫の申し出を聞くと、からかい半分に布陣図を見せ、彼女に尋ねた。
「どこに入りたいのだ」
 甄姫は先鋒の張郃の陣を細い指で示した。
 曹操は大笑いした。
「心意気は見事だが、そなたには婦人たちと息子の寵を競う戦いがあろう」
 曹操は曹丕と甄姫の仲を案じていた。
 二人は一男一女をもうけた。曹操は孫の叡を非常に可愛がっていたが、その両親が一緒にいるところをほとんど見たことがなかった。
 しかし甄姫は、物腰こそ柔らかであったが、曹操の言葉をまるで聞き入れない。曹操は曹丕を呼び出して思い直すよう嫁に説得させようとしたが、息子はさしたる感興も催さない様子で言った。
「行きたいと申すのであれば、行かせればよろしゅうございましょう」


 張郃の陣営におもむいた甄姫は、久しぶりに会った彼の変貌ぶりに驚き、しばらくは声も出なかった。彼女は周囲に誰もいないことを確認してから、彼に尋ねた。
「そのお姿は……?」
「美しくありませんか」
「お美しいですわ」
 張郃は端正な笑顔を見せた。
「わたしは世界で一番美しいものに心を奪われるのです。それがわたし自身であると言ってくださったのは、他ならぬあなたでしょう」


 世界で一番美しい張郃と僅差で二番手におちついた甄姫の組み合わせは、負け知らずだった。彼らは向かい合う敵の勢いをことごとく華麗にくじいた。
 妻につられるかのように、曹丕もよく戦場へ出てくるようになった。
 じかに話すと砂をかむように味気ない妻なのに、少し離れた場所で戦う彼女を見ていると、なぜ胸が高鳴るのか。不思議に思いながらも、彼はその感覚を楽しんでいた。


 だが曹丕が魏王位を継ぐころになると、甄姫も軽々しく戦いに出られなくなった。
 甄姫は相変わらず完璧な美しさを保っていたが、曹丕はどこか心が遠くにありそうな妻を見るたび、自分が無視されているような気がして、いらだちをつのらせた。
 ついに皇帝となっても、曹丕は何一つ手に入れたような気がしなかった。
(朕は今や皇帝である。すべては朕の僕なのだ。何を弱気になっておるのか)
 曹丕は気を奮い立たせて妻を呼びつけると、冷然として言った。
「そなたは戦場で殺戮を繰り広げているときだけ、いきいきとしておるのだな。武将としては頼もしい限りだが、皇后がそれではまずい。しかしそなたがあるのに他の者を立てようとすれば、その者が心苦しい思いをしよう。そなた、死んでやれ」
 皇帝は無関心を装ってさらりと告げた。
(泣きついてみよ。取り乱してみよ)
 それは皇帝の願いですらあった。
 しかし佳人は顔色ひとつ変えず礼をした。
「かしこまりました。叡のことをお頼み申し上げます」
「あれを皇太子にするつもりはない。母親に似て残酷では困る」
 皇帝は負け犬のように遠吠えたが、退出する甄姫は一度も振りかえらなかった。


 甄姫の死の見届け人としてやってきたのは張郃だった。夫はこのようなときですら、他の武将たちを派遣しては不安なのだ。甄姫は張郃を見るや、思わず笑いだしてしまった。
「陛下も哀れな方ですこと」
 張郃は切れ長の目をすっと細めただけで、何も言わない。
 甄姫は毒酒の杯を手でもてあそびながら、彼を見上げた。
「わたくしは以前あなたを世界で一番美しいと言いましたね」
「はい」
「その言葉は取り消します。やはりあなたより、わたくしのほうが美しいですわ」
(わたくしが世界で一番美しいなら、あなたはわたくしに心を奪われて?)

 張郃はまるで甄姫の心の声を聞いたかのように、うなずいた。

「……けれど死んでしまえば醜く朽ちるのでしょうから、やはりあなたの勝ちですわね」
 少し恥ずかしくなって甄姫はそう付け加えたが、張郃はためらうことなくきっぱり言った。
「美は永遠です」

 甄姫は少しの間目を伏せた。
 やがて再び張郃を見上げると、曹丕がずっと見たがってかなわなかった、いとおしさのあふれたまなざしをたたえて、そっと微笑んだ。

 ――雖潜處於太陰、長寄心於君王。
(たとえ、姿は鬼神の住む世界に隠れてしまっても、心はいつまでも君を想っています)

 そして佳人は優雅な挙措で杯を干した。


 ――黄初二年、甄姫は死を賜った。史書はその理由を、皇帝の寵愛が薄れたことに恨み言を述べたためとする。


 張郃から柔和で中性的な物腰が消えた。誅殺された者を悼むのは罪であったが、彼は構わず喪服を着た。
「美しいものを惜しんで何が悪い」
 張郃は殺したければ殺せという調子で高言してはばからない。
 人々が見とがめて曹丕に注進したが、曹丕は彼を罰しようとしなかった。彼もまた、美しいものを惜しんでいたのである。


 その後、結局曹丕は甄姫の遺児である曹叡を皇太子にした。彼が天子になると、佳人の名誉は回復された。張郃は曹丕の時代にも重用されていたが、曹叡の時代になって一層厚遇されるようになった。
 張郃は西方で蜀軍と激戦を重ね、ついに祁山で矢を受けて息絶えた。
 死を迎えるその瞬間まで、彼が喪服を脱ぐことはなかった。


          *文中に曹植『洛神賦』(有坂文訳)より一部を引用


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