*** ゴールデン・ハインドとドレイク ***
16世紀イングランドのガレオン(厳密な定義もあるが、とりあえず16世紀半ば以降の航洋大型帆船)で、120トン(100トン以下という記録もあるらしい)。もともと「ペリカン」という名の船だった。「この船は新造船ではないが、外板は2枚張りで非常に頑丈で安定がよく、海戦遂行に適している。大砲は青銅製である」という古い記録もあるようだが、造られた年代や帆装などについて正確なことはわからない。
1577年からの航海で「ゴールデン・ハインド」の名を一躍有名にしたのはフランシス・ドレイク(Francis Drake, 1540?-96)である。ドレイクは従兄の奴隷商人ジョン・ホーキンスに従い50トン船の船長として同行していたとき、スペイン植民地艦隊に襲撃され損害を被った。そこでスペインからの報復奪取(掠奪)を目的に、当時財政の行き詰まっていた国王エリザベス1世やハットン卿からひそかな援助を受け、「ペリカン」を含む五隻で出航した。しかし途中で同行していたハットン卿の秘書を反乱の罪で処刑してしまった。早計であったと焦ったドレイクは、卿に敵対する気はないことを示すべく船の名を改名した。「ゴールデン・ハインド」はハットン家の紋章の図柄だったのである。
反乱騒ぎやら海難やらで、結局太平洋に出られたのは「ゴールデン・ハインド」だけだった。ドレイクはチリ・ペルーに散在するスペイン植民地を攻撃し、また途中で出会ったスペイン船から掠奪した。その後喜望峰経由で世界一周し1580年プリマスへ凱旋したとき、彼は出資者に投資額の47倍の配当をもたらした。
当時イングランドとスペインは表面的には友好関係を保っていた。それで女王たちもドレイクに公的には援助をせずにいたのだが、大戦果を挙げてドレイクが戻ってきたと聞き、女王は抗議してきたスペイン大使を「ゴールデン・ハインド」に呼ぶと、その場でドレイクにナイトの称号を与えたという。スペインに対する事実上の宣戦布告である。
こうして「アルマダの海戦」(イングランドの海賊艦隊がスペインの「無敵」艦隊を破った)として世界史上有名な戦いへとなだれこむわけだが、ここから「ゴールデン・ハインド」の行方がわからなくなる。というのも、1587年、アルマダが編成されていたカディスを襲撃したとき、ドレイクの搭乗する旗艦は「エリザベス・ボナベンチュア」だったのである。また、この戦いへ参加した艦隊の中に「ゴールデン・ハインド」の名があるが、これは50トンだというので、同じ船ではないらしい。
ところで、イングランドとスペインの戦いはスペイン艦隊の撃退で終わったわけではなかった。ドレイクの続く作戦の数々は失敗に終わり、ついに彼は女王の不興を買い引退する。1595年、ドレイクは同じく隠居していたホーキンスともども呼び出され、スペイン領の西インド諸島への掠奪遠征を命じられた。返り咲くかと思いきや、ホーキンスは同年中病没し、ドレイクも翌年明けてすぐ後を追うように亡くなった。
なお「ゴールデン・ハインド」は1973年にドレイクの故郷であるイングランド西南部のデヴォンで復元された。この船は世界各地を巡航し、現在は教育・レジャーなどの施設として活用されているらしい。ちなみに復元されたものを見るととても派手だが、実際にもこんな感じだったのではないかとされている。「ゴールデン・ハインド」はイングランドの船だが、仲間だと思って油断させるためにスペイン船を装っていたのである。